[全種に共通のハードウェア進化]
ハードウェア進化の話とは、即ち生命発生から三十億年以上の長きにわたる先カンブリア時代の話である。この時代はほとんど何も起こらなかったように見えるが、実は全ての生命体の体を構成するためのハードウェアとなるべき遺伝子が進化した奇跡の時代である。それらを実際に必要とする複雑な生物種が全く存在しない時代に生まれた大量の遺伝子が自然淘汰の産物である可能性は明々白々の絶対ゼロであるから、これらの遺伝子は百%偶然の中立進化の産物である。この時代について、グールドは次のように語る。
着実な進歩という古い信念に照らしてみると、初期の生命の進化ほど奇妙なものはありえないだろう。じつに長いあいだ、ほとんど何も起こらなかったのだ。最古の化石は三五億年あまり前の原核生物のものである。…地球最古の化石記録としては、二〇億年以上にわたってストロマトライトとそれをつくった原核生物の化石ばかりが世界中から見つかる。最初の真核生物(核とさまざまな細胞小器官をそなえた複雑な細胞からなる生物)が登場したのは一四億年ほど前のことである。…しかし、真核細胞が起源してすぐに多細胞動物が登場したわけではなかった。多細胞動物が最初に出現したのはカンブリア紀の爆発が起こる直前、いまからおよそ五億七〇〇〇万年前のことだった。したがって生命の歴史の優に半分以上は、原核生物しか登場しない物語であり、地球上に生命が誕生してからこれまでの時間のうちの後半六分の一だけにしか多細胞動物は登場しないのである。 そんなにも遅れたこと、そんなにも長い時間を要したことが、偶発性の介在と可能性が実現しなかった膨大な領域の存在を強く物語っている。原核生物が真核生物になるべく向上しなければならなかったのだとしたら、そうなるにあたってはまちがいなくそれだけの時間がかかった。
『ワンダフルライフ』p.475-6
原核生物から真核生物への十~二十億年掛かった進化も興味深いが、いずれにしても、先カンブリア時代の三十億年以上の間、地球上には単細胞生物しか存在しなかった。これだけ長い時間が必要だったのは、生命が繁栄できるために地球環境を大改造するためでもあったが、生命自体の中では多細胞生物となるための遺伝子が着々と蓄えられていたのであって「何も起こらなかった」わけではない。目に見える変化はなくとも、見えないところで偉大な進化が起きていたのである。ワトソンの教科書には次のような記述がある。
動物の歴史は五億年を少し超えるにすぎないが、細菌は三〇億年以上も前に出現している。進化史の長さに加え、細菌の進化は速いので、さまざまな代謝形態を生み出し、きわめて多様で極端な環境にも生息できる。海底の熱水噴出孔に生息する細菌もあれば、陸地の硫黄温泉に生息するものもある。
種々の細菌のゲノムに存在する遺伝子は、数も種類もとてつもなく変化に富んでいる。マイコプラズマなど最も単純な細菌の遺伝子はわずか五〇〇個だが、放線菌に属するストレプトミセスなど最も複雑な細菌がもつ遺伝子は七〇〇〇個を超える。この遺伝子数の大幅な違いは、さまざまな動物間で見られる二倍程度のささやかな変動とはきわめて対照的である。遺伝子含量は、近縁の細菌種間でさえ非常に異なる。たとえば、ブドウ球菌と大腸菌は分岐してから約五〇〇〇万年であり、これはマウスとヒトが分岐した期間と同程度である。それなのに、二種の細菌に共通するタンパク質の遺伝子は約七五%にすぎない。驚いたことに遺伝子の二五%は菌種特異的で、明確な対応遺伝子はほかの菌種には存在しない。 一方、動物はどれも、よく似たはるかに穏やかな環境に生息しており、類似の代謝経路を用いている。形態は明確に区別できるが、この章を通して見ていくように、この多様な形態は、新しい遺伝子を発明するというよりもむしろ、特定の遺伝子群の活性を変えることによって生じたものである。
『遺伝子の分子生物学【第5版】』p.618
つまり、多細胞生物においては新しい遺伝子の発明はほとんどない(それは当然、高度なシステムでは小さな変化も全体のシステムを乱すので排除されるからであり、大企業が体質改善できない事情と良く似ている)が、単細胞生物はベンチャー企業と同じで大量の新しい遺伝子を発明する自由を持っているのである。そうしてカンブリア大爆発の前には、多細胞生物となるために必要な遺伝子が単細胞生物の中に準備されたと考えられる。
例えば、単細胞生物である立襟鞭毛虫の遺伝子の中に、多細胞動物特有のPTK遺伝子族が多数存在するという事実がある。植物界でも同様に、ミカヅキモ等の単細胞の藻類の中に多細胞植物特有のRLK遺伝子族が多数存在する。これらの遺伝子は多細胞生物にとっては細胞間のシグナル伝達のために必須のものだが、単細胞には必要ないものである。宮田隆の研究グループは多細胞生物には必須のこれらの遺伝子が一体いつ生まれたのかという分子進化学上の問題に関して多くの研究成果を挙げ、以下のような結論を述べる。
およそ一〇億年前、立襟鞭毛虫と多細胞動物が分岐したあたりで、機能の異なるさまざまな基本的遺伝子が、遺伝子重複とドメイン混成の機構で、急速に多様化し、おそくも約九億年前におきた現生動物最古の分岐であるカイメンとその他の動物の分岐までには完了していた。…およそ六億年前に爆発的に動物の形態が多様化したと思われる時期、すなわちカンブリア爆発には遺伝子多様化はほとんど見られない。遺伝子レベルの多様化と形態レベルの多様化の時期は明らかに重ならない。
『分子からみた生物進化』p.242-4
つまり、多細胞化のために必須の多様な遺伝子族の爆発的な進化は、カンブリア大爆発より約四億年も前にとっくに完了していたのである。ゆえに、多細胞化のための遺伝子の進化は約六億年前の環境変化による様々な外圧により必然的に起きたなどという決定論的説明はできない。ここで良く考えて欲しいのは、人々は単細胞から多細胞になる進化が起きたことを当たり前のように思っているが、単細胞生物には多細胞生物にならねばならない圧力などは存在しないということである。今でも地球上で最も繁栄しているのは単細胞生物なのであって、多細胞生物が生まれるべき必然性などはどこにもない。
単細胞から多細胞への進化が起きた経緯についてダーウィニストは何も説明できない。にも関わらず、彼らの中には、結果だけを見れば各細胞が分化できて各自の仕事に専念できることが有利だから進化したというような本末転倒の理屈で説明したつもりになっている者がいる。この不思議な進化を論証したければ、単細胞から多細胞になるまでの途中経過が全て有利だったと言わねばならないのに、最終結果が有利だったから(ということは最終結果に自然淘汰が働いて?)進化したなどという粗雑な議論をする。ここに、ダーウィニストの議論がもはや科学ではなく信仰告白でしかないという現実を見ることができる。
そもそも多細胞生物になることが本当に有利なのか?多細胞になれば各細胞が自分の仕事だけやっていれば良いという協調性皆無の発想自体が根本的におかしい。多細胞生物の発生、生命維持、そして繁殖がどれほど複雑で大変な仕事であるか、それを考えたら単細胞で自分のためだけに生きている方がよほど気楽だろう。しかも根本的な違いは、多細胞生物は世代ごとに死ななければならない、ということである。これに対し、単細胞生物は自分のクローンを作ることで繁殖するのだから、永遠に死なないと言っても良いだろう。それなら、多細胞生物になることに何のメリットがあるというのか?
とにかく、先カンブリア時代の単細胞生物は、多細胞生物になる必要性など全く無いし、繁殖の手間も大変なことになるだけなのに、複雑な多細胞システムを構築するための遺伝子をせっせと創り出した。つまり、自分とは全く別世界の生物である多細胞生物のため(などという意識はもちろん無いだろうが、最終的結論としては人間を生み出すためという壮大な目的のために)偉大なカンブリア大爆発を起こすための準備を着々と進めた。その全ての準備が整った時、満を持して大量の多細胞生物が飛躍的に現れたのである。
単細胞生物としての繁殖は単に細胞分裂すれば良いだけの話だが、多細胞生物としての繁殖は全く次元の異なるシステムを必要とする。多細胞生物の各細胞は、もはや自分の勝手なタイミングで分裂することは許されず、それぞれが全体の中での自分の役割を守って行動する。この「分化」という不思議な現象と、分化した体制をさらに完全コピーする繁殖がいかにして可能となったのかが、多細胞生物への進化に関する最大の謎である。しかし、それが永遠に謎であるのは、それを自然淘汰で説明しようとする場合だけである。全てが中立進化なら、そこで話は終わりで、偶然に関して科学が説明すべきことは何もない。
自然淘汰説で説明しようとしても絶対にできないことは幾らでもある。例えばDNAとタンパク質、雄と雌、植物と昆虫等々の相互依存関係の進化を「共進化」と呼べば、自然淘汰で説明したことになるのか?相互依存を決定論で説明すれば循環論法になるだけである。こういう欺瞞に逃げるから現代のカルトだと言うのだ。これに対して中立進化説は全て偶然だと証明して、科学では説明できない事柄があることを初めから明示している。科学はHOWを解明するだけでWHYの問いに答える資格はない。科学が真理の全てではないという身の程を教えることこそ、量子力学と中立進化説の指し示す非決定論の真骨頂である。
もちろん人間は、HOWを語る科学だけでは満足できず、WHYを語る形而上学を必要とする生き物である。だから、それについては哲学編で語ると初めから明確に順序立てている。とにかく今この科学篇ですべきことは、エボデボ革命が明らかにした胎児発生プログラムに関する驚くべき知見を、自然淘汰説という偏見を離れてありのままに見ることである。その結論は本章の三段階進化論しか有り得ない。このことを先ず確認した上で「そんなことがどうして偶然に起こり得たのか?」と自然に沸き起こってくるはずの形而上学的疑問については哲学篇で改めて議論する、ということで是非そこまでお付き合い願いたい。


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