序論後半

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*科学編(What Is Evolution?)の要約*

様々な進化を見て来たかのように語る物語の常套句は「ある時ある能力を獲得した個体が現れ、ここから進化が始まった」というようなものである。このような通俗的話法自体が、実際に起きたことの本質を全く理解できていない事実誤認であることを分かり易く説明したい。そのためには最も著名な具体例から始めた方が良いだろう。即ち「ダーウィンフィンチの嘴の進化」と呼ばれている、あの話である。ここで起きたことは一体何だったのか?については、既にDNAレベルで分かっているので、先ず謎解きをしてしまおう。

全ての鳥類のDNAには、嘴を長くするCaMという遺伝子スイッチと嘴を高くするBMP4という遺伝子スイッチがある。つまり、ダーウィンフィンチが生まれるより遥か前から、全ての鳥には嘴のサイズを自由に変えられる潜在能力があったのだ。だからダーウィンフィンチも環境に応じて嘴を変え、種全体を絶滅から守ることができる。で、様々な環境に適応して姿を変えていたら「進化の実証例」と誤認されてしまったわけだが、この小進化は環境が戻れば元に戻れるので種内変異であり、進化とは本質が異なる。不可逆的に種分化する大進化だけが真の進化である。しかしどちらも次の三段階を経る点は同じである。

①潜在能力の分子進化:目に見えない潜在能力として進化は深く進行する

②表現型に顕在化する:これを、目に見える「有利な突然変異」だと誤認

③同表現型が増殖する:進化は②で完了しているのに、これを進化と誤認

全ての変化は全くの無からは生まれない。先ず「変化できる」という潜在能力が準備されていて、それが現実化したというのが全ての変化の実態である。このことが通俗的理解では全く無視されている。「有利な突然変異」のように見える変化の実態は全て①→②の長い過程を経て起きている。この本質が見えなければ②は確かに遺伝子スイッチの一回の突然変異で大きな変化を起こす現象と見えるため、この飛躍的現象が一つの「有利な突然変異」と誤認されてしまうのだ。この通俗的誤りまでは、気付いている進化学者も多い。

その上で、では①の潜在能力の分子進化そのものは自然淘汰で進化できるものなのか?という根本問題をよくよく反省しなければならない。言い換えれば、遺伝子スイッチ以外のDNA情報の一箇所が書き換えられるという微小な突然変異が単体で有利になるということは有り得るのか?という疑問である。その答えは端的に「有り得ない」であって、それは既に分子進化学の知見として明らかであるし、ソフトウェアで組まれたシステムを日常的に使っている現代人には直観的にも明らかであるということを語っておこう。

本文で詳述する通り、タンパク質に翻訳される遺伝子上の突然変異は全て有害であり、その有害さが低いほど早く進化できる。ゆえに有害さがゼロである中立進化が最速である。もしも遺伝子上で有利な突然変異が起き得るとすれば、その遺伝子は急速に進化するであろうが、中立進化が最速であることが分かっているので、そのような事例は存在しない。つまり遺伝子上の全ての突然変異は観測事実として有利でないことが分かっている。

この観測を待つまでもなく、これはシステム開発に携わる技術者には自明のことである。変化するために必要な①の分子進化は、同一種内の全個体でDNA情報が一文字ずつ地道に置換されていく過程である。それはソフトウェアの開発で考えてみれば、コンピュータ言語で書かれたコードを一文字ずつ書き換える作業であるが、動作中のソフトウェアの一文字を置換すれば、その瞬間にシステムは暴走する。生命システムで言えば、活動中の遺伝子の一部でも書き換えられたら直ちに遺伝子病になってしまうだろう。

それゆえ、システムを更新したい場合、既存のコードを直接書き換えることはできず、システム更新のため別に確保した領域に新しいシステムを密かに書き貯めて、完成したら一気に実行制御を切り替えるという手段を取るしかない。その新しいシステムが完成した時点でも、実際に使われるまではあくまでも潜在能力であり、表現型は何も変化しない。何も変化しないなら自然淘汰が働くことはできない。つまり自然淘汰の功績はゼロであり、自然淘汰で不可視の潜在能力が進化するなどということは論理的に有り得ないのだ。

で、①に続く②で漸く一個体が進化すれば、当然の結果として③の増殖という現象が続き、これが誰にも分かり易い「進化の実証例」のように見える。しかし進化の功績は全て①の偶然の中立進化に帰せられるのであって、②の最後の突然変異で進化は完了しているのだ。しかるに従来の議論は①の功績を完全に無視して、②を進化の出発点となる「有利な突然変異」と誤認し、③の当然の増殖を自然淘汰の功績と誤認している。これはとんでもない功績泥棒の議論であり、誤認どころか意図的な洗脳であったと言う方が適切だろう。

偶然は決定論的な単純な頭脳では容易に想像できない、実に摩訶不思議な結果をもたらす。しかし、その不思議な振る舞いは、コンピュータで乱数を使えばシミュレートできる。中立進化が実際に起きる様子をシミュレートした結果は本文(第一部第一章)の中にあるので詳細はそちらを参照して頂きたいが、結論から言えば、平均個体数Nの集団の中で起きた一つの突然変異が、偶然の遺伝子浮動により全個体に固定される確率は1/2Nであり、最終的に固定されるまでの時間は4N世代であるという中立進化説が良く実証される。

しかしながら、このような実験はあくまでも偶然に関する現象的理解でしかなく、本質的理解ではない。科学的には意味のないはずの偶然だけで進化が説明できて、その進化の結果として驚くべき合目的的システムが生まれたのはなぜか?これが偶然に関する本質的疑問である。偶然とは科学と神の境界領域であるから、偶然には科学だけでは説明し切れない内容がある。少なくとも直観的には誰もがそう感じているはずだ。ということで、第二部哲学編では、偶然が科学の限界であると同時に神の世界への入口であることを語る。

*哲学編(What Is Chance?)の要約*

「偶然」は知の砂漠である。そこにどのような意味があるのか、全く見えない。それで、中世神学では、それは被造物の気紛れに過ぎないから神は一切関知しないと考えられ、近代では、そこには科学的な理解が未だ及んでいないが最終的には科学で全て解明される予定の領域とされた。そのように浅薄な理性にとって偶然は暗黒の闇に過ぎなかったが、前述の通り、人々の暗黙知としては、偶然の中に神の意志が現れていると直観されていた。

それで、誰もが初めは偶然の問題に関して無関心だが、人生の経験を積むに従って、そこには何か深遠な意味があると感じるようになる。そういうわけでこれは、人生の終わりに近い人々の声に耳を傾けるべき問題である。例えば著名な霊能者である美輪明宏に聞こう。曰く、人生に偶然はなく全て必然。これは一体どういう意味であろうか?ここにおいて「偶然」は科学的あるいは表面的な理解であるのに対し「必然」は形而上学的あるいは霊的と呼ぶべき深い悟りを意味している。

つまり、人生は科学的に見れば偶然に起きた出来事の無限連鎖であるが、それを形而上学的に見れば全て神の必然的な導きとしか思えないということである。科学的理解と形而上学的・霊的理解は全く異なる次元の話であるから矛盾はしない。問題は、一般的な「偶然と必然」という二分法だけでは深い話ができないというところにあるので、ここにもう一つの二分法を持ち込む必要がある。それは即ち「形而上学的原因の有無」という対立軸を考えることであり、簡単に言ってしまえば「有神論vs無神論」という二分法である。

表1を見て頂きたい。縦軸は昔ながらの偶然と必然の二分法である。それに対して、横軸が形而上学的原因の有無による二分法である。従来、特に近代においては、科学的原因の有無という対立軸だけを念頭において「必然vs偶然」と単純に呼び分けて来た。そこに形而上学的原因(神の意図)の有無という対立軸を持ち込んでみれば、「意図的偶然」「盲目的偶然」「意図的必然」「盲目的必然」という四つの観点が可能となる。

モノーが『偶然と必然』という有名な書物を書いた時、彼の頭の中にあったのは盲目的偶然(突然変異)と盲目的必然(自然淘汰)、及び論敵としての意図的必然(創造論)という三つの観点のみであった。そこには意図的偶然という第四の観点が決定的に欠けていたのである。しかしこれを的確に表現するのは非常に難しい。例えば美輪明宏の悟りにある「必然」とはまさにこの意図的偶然を意味しているが、深い悟り無しに必然と言えば決定論と誤解されるので、本書ではその誤解を避けるため意図的偶然という言葉を使うのである。

それゆえ、この意図的偶然という概念についてもう少し考察を続けていきたい。先ず、このような概念はキリスト教圏では普通に存在してdesigned chanceとかdivine chanceとか呼ばれている。これは明らかに、偶然の背後に神の導きがあるという彼らの直観を表している。日本人にも知られている言葉で言えば、セレンディピティとかシンクロニシティという言葉がある。要するに主観的感覚としては出会うはずのない出会いとか一致するはずのない出来事の一致のような神秘的体験が、このように呼ばれるわけである。

しかし、これを客観的な科学的確率で見れば、超常現象が起きたわけではなく、起こる可能性はあるはずのことが起きたというだけの話である。だから全てを他人事のように見物している者には「偶然には意味など無い」としか感じられないが、当事者にとってみれば奇跡のような出来事としか思えないのである。こういう体験が、人生を重ねれば重ねるほど無視できないほどの量になってくる。これも長く生きていれば自然に増えると言ってしまえばそれまでなのだが、霊的感性が研ぎ澄まされてきた結果と見た方が正しい。

本書は「必然の領域は科学法則が支配するが、偶然の領域は神が支配する」と明確に切り分ける立場である。この立場では、表1の四項目は意図的偶然と盲目的必然の二つだけが実在し、盲目的偶然と意図的必然の二つは幻想としてのみ存在していたと主張される。美輪明宏の言葉を言い換えれば「この世に盲目的偶然は無く、全て意図的偶然」である。神が世界に介入する手段は事実として意図的偶然だけであり、創造論の意図的必然は神の奇跡的介入と同義で科学と矛盾するので、これは絶対的に否定されなければならない。

こうして、偶然とは神が世界に介入できる唯一の窓であり、我々の方から見れば神に出会うことができる唯一の道であることが分かる。そこで先ず神から世界に偶然を介して与えられた情報こそ世界の全てである(言い換えれば世界は情報で出来ている)という悟りを存在論として語り、次に偶然の意味を霊的に察知して神の心を知ることによってのみ究極の善を認識できるという認識論を語り、最後に決定論を排除することによってのみ全ての矛盾対立を和解に導けるという方法論を語る。その最良の例として創造論と進化論の和解を語り、そしていよいよ最後の神学編で、その神の心を理解する試みに入っていく。

*神学編(Who Is God?)の要約*

ここで哲学編と神学編の違いを説明する。ティリッヒが語ったように、哲学とは被造世界の科学的知見から神の第一原理に上昇していく試みであり、神学とは逆に神から被造世界に下降して第一原理を適用していく試みである。そして偶然こそ(本書が初めて明確にしたと自負するが)神と被造世界の真の境界であるから、哲学編では偶然の意味を人間の立場から考察したのに対し、神学編では偶然を神の立場から考えてみる。即ち、真の神なら世界に介入するために偶然をどのように用いるだろうかと忖度してみるのである。

従来の神学において決定的に欠けていたのは、この「神の立場に立つ=神の心を忖度する」という観点である。正統主義的な神学者は神と人間の間の無限の距離を強調するばかりだったので、神の心を忖度してみるなどということはおよそ思いも及ばぬことであった。その結果、カルヴァンのように、自分では神を賛美するつもりで「神は御自身の栄光を現すために世界を創造された」などと語り、神を自分の栄光しか考えていない最大のエゴイストにしてしまう(贔屓の引き倒しのような)愚かな失敗を繰り返して来たのである。

実際、スコラ神学の神は自分にしか関心がなく、遥か天上の世界で独り観想にふける完全自足の神(actus purus)であった。こんな神が真の神であるわけがないことは日本人なら誰でも分かる。そのため日本には決してキリスト教が根付かない(果ては左翼の隠れ蓑にまで成り下がっている)。日本人は神を信じないのではない。ただ、キリスト教の神が本能的に嫌いなのだ。日本人の心の中には縄文以来の神が棲んでいるが、それを言挙げすることを嫌う。この日本人の心を正しく言語化すれば真の神は容易に理解できるであろう。

先ず、カルヴァンの思考を神の立場に立って考え直してみよう。彼は神の最高の喜びは自分の栄光を現すことだと考えたのだが、本当にそうか?全能の神にとって、最高の喜びとは一体何であろうか?それは自分の絶対的権力を誇示することではなく、最高の愛を希求することにあると考えるのが当たり前ではないのか?では最高の愛とは何か?愛の目的が支配でしかないのであれば、神は自由に支配できる世界を作って君臨すれば良いだけである。そんな世界は全能の神なら一瞬で作れるが、また一瞬で飽きてしまうだろう。

愛とは、全く別人格である主体と対象が出会って、互いの心が共鳴する喜びを知り、同じ一つの夢に向かって努力する喜びの中で生きて、最終的に実現する喜びを共有する全過程の中に存在するのである。で、その主体が神であるなら、神と一つになれるほどの対象を創造したいという原初の衝動があったはずであって、その結果として最終的に生まれたのが我々であり、具体的には先ず私であるから、私は神の夢を託されるべき存在として生まれたのでなければならない。それを一言で言えば、私は神の子であり神は私の親である。

要するに全ての人間は神の分身であり、神道的に言えば神の分け御霊である。だからと言って、初めから神と同等の存在であるなら初めから一つなので、神と一つになる喜びを知ることができない。だから先ず何も知らない赤ん坊として生まれ、成長して親に喜ばれる喜びを知り、やがて神の願いを自分の天命として悟り、それを神と共に実現するために一生を捧げて、実現したら「もうこれで死んでも良い」と実感する最高の喜びの中で死ぬ、というのが理想の生涯ということになる。しかし、それができた人がどれだけ居るのか?

上の文のキーワードは「神と共に実現」ということにあるのだが、それが誰もできない。そしてそこに全ての悪の原因がある。善は各人の天命に関わる個別的側面が大きいが、逆に悪は基本的に全員が同じ失敗をするので普遍的悪として語ることが可能である。それは「神の心を知ることができない」という一点を淵源とする。そこから「神が自分に委託したはずの自由の責任を放棄する」「その責任を他者に転嫁して分断を煽る」「その結果として自分も他者も不幸に引きずり落とす」という悪の典型が現れてしまうのである。

上記四点が、真の神が分からないために偽りの神を崇拝する偶像崇拝の悪の本質となる。偶像崇拝の実例は現実世界の悲劇の中に無数の形の「偽りの神観」として存在している。そこで、先ずはその偽りの神観を三類型に纏め、真の神観と合わせて四類型の神観として示したうえで、それらの三類型を排除した真の神観を説明する。それでも現実世界はいまだに偶像崇拝の悪によって席捲されているので、偶像崇拝の悪の四項目を詳細に説明し、そこからいかに脱却するかの解説を本書の最大かつ最後の使命とすることを考えている。

悪の問題とは、人類がなぜ神を正しく理解できなかったのかという根本問題と同じである。全ての悪は偶像崇拝であり無神論も偶像崇拝である。決定論も必然性を崇拝する偶像崇拝であるから、本書がその批判から始まったのは当然である。真の神を知るということは偶像崇拝を脱することと同義であり、それにより初めて天命を悟ることができるので、本書は偶像崇拝の批判で終わるしかなかった。こうして悪の存在と神の存在は表裏一体の真理として円環構造を形成する。本書がその真の理解に資することができれば幸いである。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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