第三章:大進化は飛躍的種分化(後半)

[ネオテニーによる進化とは何か]

ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」という有名な反復説は例外が多過ぎて今では誰も見向きもしないが、その反動で逆に胎児発生の問題を軽視し過ぎるようになった風潮にグールドは異を唱えた。自然淘汰万能主義者は成体の形態が有利だったから進化したと考え胎児の形態はただの通過点と見るが、その成体の形態を準備するのは胎児発生プログラムなのだから、ここにこそ大進化の秘密を解く鍵があると彼は見抜いたのである。『個体発生と系統発生』という大部の著作においてグールドは、ヘッケルの全盛期から反復説の最大の例外とみなされてきたネオテニーという現象について詳細に検討している。

その最終章では、ボルクの人類進化ネオテニー説が再評価される。ネオテニーと言えば、サンショウウオに変態せず、その幼形のままで成体になるアホロートルが有名であるが、それよりもヒトの進化をネオテニーとして捉えた時に初めて、この現象の本質は真に明らかとなる。先ず現象的に、ヒトの進化がネオテニーであると言われるのは、ヒトとサルの幼児が極めて似ていることから「ヒトは幼形のままで大人になったサルの幼児である」と思われるからである。グールド自身の説明を引用してみよう。

個体発生の初期段階は、潜在的な適応の貯蔵庫である。幼形的な特徴は、それ自体が適応であるかもしれないし、単純なものから複雑なものへという形態形成的な発育によって引起こされる単なる位相幾何学的な結果であるかもしれない。たとえばデュブリュールとラスキンは、多くの胎児的特徴を卵や子宮内に「ぎっちりとつめ込む」必要と結び付けている。…これと同じ特徴は、成人では別の理由で適応的である。それは、直立姿勢のための頭蓋の屈曲、バランスをとるためと歯列の縮小への対応として腹側を向いた小さな顔、骨化における経済効率をはかるために球状になった頭蓋冠などである。祖先の幼形の過渡的な段階としてそれらの特徴があったということと、それらを子孫の成体段階に移行する機構(遅滞された発育)の存在が、それらの前適応的価値を確立している。ボルクが初期の論文に書いているように、「二足歩行は、原始的な胎児の、中央に位置する大後頭孔に、その趨勢に与する好運な条件を見出したのである」

『個体発生と系統発生』p.543

足裏全体を地面につけて歩く蹠行性の直立した大型類人猿の足には、回転していない力強い親指が必要である。そのような段階は、指の分化においては過渡的であるがほとんどなくてはならない時期として、既に存在していた。遅滞された発育の全般的なマトリックスの中で、この前適応は容易に成体段階まで保持することができた

『個体発生と系統発生』p.515

上記は学者向けの記述なので非常に分かりにくいが、グールドがネオテニーを前適応として説明していることを批判するための資料として、あえて引用した。もう少し分かり易い一般向けの記述も引用しておこう。

われわれの諸器官の多くは、これに対応する霊長類の諸器官が成長をとめたあともなお長く成長をつづける。アカゲザルの脳は、出生時には最終の大きさの六五%であり、チンパンジーでは四〇・五%であるが、ヒトではわずかに二三%である。チンパンジーとゴリラでは、生後一年目の初期に、脳は最終の大きさの七〇%に達する。われわれ人間がこの数値に達するのは、ようやく生後三年目の初めにおいてである

『ダーウィン以来(上)』p.94-5

実際、幼期の形質は子孫にとっては適応の潜在的な宝庫であり、それらの形質は、もし発育をうまいぐあいにうんと遅らすならば、簡単に利用できるのである(たとえば、前述のような霊長類の胎児の足の非対向的な親指とか小さな顔など)。ヒトの場合には、「利用可能な」幼児期の形質が、われわれの特異な適応への筋道の多くをコントロールしていることは明らかである

『ダーウィン以来(上)』p.95

つまり、脳の成長速度は胎児の時が一番速いのだが、サルは生まれてすぐに脳の成長が止まってしまうために、ヒトのように大きな脳が持てない。しかし、ヒトは生まれてからも脳の急激な成長という胎児の性質を保ち続けるために、結果として大きな脳を発達させることができた。つまり、サルからヒトへの進化は、脳の成長を止めるスイッチがサルより少し遅れて切られるという小さな突然変異の結果として起きたのであって、脳を大きくするための特別な遺伝子が新たに創られるという大げさな進化ではなかった(これについては、遺伝子スイッチによる発生制御の例として第四章で改めて取り上げる)。

同様に、サルとヒトを隔てる様々な形質の違いも、もともとサルの幼児に存在する形質を保ったまま大人になることによって獲得したという。例えば、上記引用における「霊長類の胎児の足の非対向的な親指」とは、サルの幼児の足は親指が人間と同じように他の指の隣に並んでいて地上を力強く歩行するのに適しているということで、これが大人のサルになると、親指が横に回転して手のように木の枝を掴む樹上生活に適した形に変わってしまうのである。これについては、日本のサル学の権威今西錦司も認めているように、チンパンジーや日本ザルの子供を観察すると顔つきも人間そっくりであり、スタスタと直立二足歩行で歩く姿も猿というより人間の方に近いのである。

このようなネオテニー説の主張は、ヒトの進化の通俗的説明として有名なサバンナ説や水棲説等の(解説する価値も必要性もない)与太話とは雲泥の差の説得力を持つ。しかし問題は、ここから何を学ぶかということである。良くある「子供っぽい方が進化している」等の、アダルトチルドレンを正当化するような珍解説ではネオテニーの本質は全く分からない。人類のネオテニーとは赤ちゃんに返ることではない(『2001年宇宙の旅』の有名なラストシーンもこの種の誤解である)。そうではなくて「サルの胎児の中に人間の原型が初めから準備されていた」という事実にこそ重大な意味があるのだ。

ヒトという進化の最終形態の原型が約五百万年も前に分かれた類人猿の胎児の中に既に準備されていたというのは驚くべきことである。つまりサルの胎児は初めからヒトになるためのプログラムを潜在的に備えていた。しかし、サルとして生まれた直後に脳を成長させるプログラムのスイッチは切られてしまう。そして、生まれた時には直立二足歩行に適していた足も、樹上生活に適した足に変形されてサルになる。この事実の最も自然な解釈は「サルはヒトを究極的範型としてそこからデフォルメされた」というものだろう。

もちろん、これは有神論的な目的論で、既に科学の範囲を超えた形而上学ではあるが、少なくとも進化の合目的性は全ての科学者が認める事実である。その合目的性を説明するために、人々は安易な自然淘汰信仰に縋った。それに対して本書は「完全なる偶然を通じて明らかに合目的的な進化が起きている」という事実を語っている。ただし、偶然がなぜ合目的性を生むかについて科学は語る権利も義務もないので、これ以上は何も言えない。一方、ダーウィニズムは、その原因を必然的な自然淘汰という偽りの神によって説明しようとしたのだから、それは科学ではなく信仰に過ぎないと非難されなければならない。

そういうわけで「神という仮説」は一切排除した上で科学者が語れる説明としては「サルの胎児がヒトとなる潜在能力を備えていたのは全くの偶然である」ということしかないのだ。以下では人類進化だけでなく、約四十億年に亘る全ての進化の原因として「偶然以外に科学の答えは有り得ない」という最終的結論を目指すが、グールドはこのようなことを直感的に理解していたはずである。それでも自分はダーウィニストであると自己規定するグールドは、その直感を前適応という一時しのぎの言葉で表現するしかなかった。その前適応の誤りを批判することを通じて、本章の最終的結論を出していくことにしよう。

[前適応は幼稚な誤謬論理である]

先ずグールドの思考経路に沿って、大進化は如何にして可能となるのかを纏めてみよう。グールドは少なくともサルからヒトへの進化のメカニズムはネオテニーであると確信し、ネオテニーを推進した要因として、胎児の成長を遅滞させる速度遺伝子という概念を持ち出す。これは要するに、既に何度も説明した遺伝子スイッチのことである。遺伝子スイッチはシステムの制御機能であって、制御が働くためには制御対象となる潜在能力(例えばサルと共通の脳の成長能力)が当然の大前提として先ず存在しなければならない。

しかるにグールドでさえ、この「潜在能力の起源」の問題を理解できず、前適応という欺瞞に逃げた。前適応の論理とは、潜在能力の起源という第一に問うべき十分条件の問題から逃亡して、その能力を発揮するために必要な形態の起源という副次的な必要条件の問題に論点をずらすという、ダーウィニストお得意の「退行的仮説修正」の誤謬論理である。例えば、子宮内に詰め込むために胎児の形態が獲得されたとしても、さらにその形態が二足歩行に適していたとしても、それで二足歩行の起源を説明したことになるのか?そもそも二足歩行するための潜在能力が先ず存在しなければ、歩くことなどできるわけがない。

彼らは「歩くための形態を獲得すれば後は自然に歩くことを覚える」などと軽く語るが、これほど本末転倒の話はない。「自然に歩くことを覚える」と言うなら「具体的に何を覚えるのか?」について良く考えて欲しい。先ず歩くための潜在能力があるから、それを自分の体から学ぶことができる。これ以外に覚える方法はない。歩行能力以上に、飛翔能力について考えれば問題はさらに明白となる。鳥はどうやって「飛ぶことを覚えた」のか?「羽毛があったから」などと言うのは恥ずべき幼稚な推論で、羽毛は飛翔の必要条件ですらない。飛べるための十分条件は所謂「飛翔本能」の真の意味としての潜在能力である。

飛翔本能とは要するに、飛ぶ方法を体が知っているということである。アスリートの場合でも同じことで、余計な運動理論を捨てて、体の本来の能力を解放するということが究極的な悟りとなる。これは山本由伸投手を「作った人」である矢田修先生の教えによって世界的に理解されつつあるが、この偉大な体の潜在能力は、一体どのようにして獲得されたのか?潜在能力は現実化されなければ自然淘汰に掛からないので、全ての段階の能力を過去の誰かが試行錯誤で現実化し、獲得していたという理屈にならざるを得ない。しかし全てのアスリートの手本となる至高の段階の試行錯誤を、一体誰がやったというのか?

その試行錯誤を生涯の宿題として闘っている最高のアスリートが、結局は体が初めから知っている潜在能力に学ぶことを究極の悟りとするのであれば、これはもはや経験的な獲得能力ではなく、全く天与の能力として初めから与えられていたと認めるしかない。このような話は、考えてみれば余りにも当たり前であるので、全ては生命の神秘的能力であるという生命信仰に無意識化されてしまい、潜在能力の起源という大問題は完全に忘却されている。前適応の論理はそれを悪用し、この問題を回避する誤謬論理でしかないのだ。

もう一度明確にしておこう。前適応とは、新しい機能を獲得するために必要な形態が過去の自然淘汰で準備されていたという主張で、その形態があれば新しい機能が得られたのは当然だと思い込んでいるだけなのに、説明できたと勘違いしてしまう逃げの論理である。これは新しい機能を獲得するための十分条件を完全に無視して、必要条件だけで進化を説明できるとする誤謬である。ここで十分条件とは、その機能を可能にする潜在能力の存在である。それに対し、その機能のために必要な形態の存在は必要条件でしかない。

そもそも「形態が過去の自然淘汰で準備された」という必要条件さえ誤りであり、全ての驚くべき進化を前適応だけでは説明できないと、グールド自身が認めている(『パンダの親指(下)』p.25)。だからこそ全ては偶然であるという外適応にシフトせざるを得なかったわけであるが、今では全ての進化は百%偶然の結果であるという中立進化説が確立しているのだから、その中立進化によって全ての潜在能力が準備されたという事実を認めるだけで良いのだ。こうして「進化は完全な偶然で準備された潜在能力を遺伝子スイッチで制御した結果である」という正しい結論が得られる。その結論を、最終章で纏めていこう。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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