[種は情報=実体として実在する]
本章では先ず「種とは何か?」という根源的な話をしなければならない。その理由は、ダーウィニストがこの問題について唯物的で浅薄な理解しかできず、種の定義が混乱の極みに陥っているからである。この状態では、そもそも「新しい種が生まれるとはどういうことか?」が分からず、大進化の議論自体が不可能になってしまう。そもそも常識的には、交配可能であれば同じ種だという共通理解が普通に存在した。しかるに、それだけではきれいに分類できないという分類学者の勝手な都合で、種の定義はどんどん複雑になる。
彼らは表面的な形質しか見ないので、種の本質に迫ることができないのだ。前章で、多様な種内変異は種の本質であって、それこそが種の永続性を保証するものだと語った。その最も驚くべき実例はイヌである。これは人為的に多様な種内変異を引き出した例で、牧羊犬から愛玩犬まで、外見からはとても同じ種とは思えないほどの多様性が得られる。しかし、見た目がどんなに違っても、彼らは同じイエイヌという種に属する。万年オーダーのイヌの育種の歴史によっても、新しい種を生み出すことは決してできなかった。
ここから二つの結論を学ばねばならない。一つは種の壁の存在である。ダーウィニズムは漸進主義の立場を取り、小進化が連続して累積すれば、やがて必ず大進化となる、つまり新しい種が生まれると、何の根拠もなく信じてきた。これはダーウィンが思い付いたというだけで絶対化されたカルト的教条である。しかし、イヌに限らず全ての育種家がとっくに気付いているように、そういうことは有り得ないのである。もちろん、これは永遠に実験し続けなければ結論は出ない。しかし、もう一つ絶対に学ぶべき結論がある。それは、どんなに姿が違っても、別の種と決め付けることはできないという確かな事実である。
しかるに分類学者は姿の細かい違いから、どんどん「新種の発見」を積み上げてしまう。果ては、棲息地域の違いや隔離期間の長さ等が大きければ勝手に別種と決め付ける。このような思考は絶対におかしい。むしろ、姿が違っても、交配可能であれば同種として纏める努力をすべきである。例えば前章でも扱ったダーウィンフィンチは、顕著に異なる姿毎に別の種と分類されているが、DNA検査からは明らかに交雑しているので同種であり、姿の違いは豊かな種内変異の潜在能力を示すものだ!ということを認めるべきである。
また例えば、二〇二五年にキタキリン、アミメキリン、マサイキリン、ミナミキリンが独立した種と認定されたが、もともとキリンの亜種と考えられていたこれら四グループは実際には交配可能であると分かっている。それでもゲノムの解析から彼らが数十万年交配していないことが判明したから別種と決定したというが、数十万年交流がなければどうして別の種なのか?この決定は、何の根拠もなく定説化されてしまったE・マイヤの異所的種分化説に由来する。それは、互いに交流できないほど隔離された環境に分かれたグループが別々に進化すれば、いつの間にか別の種になってしまうだろうという説である。
こんな適当な説に誰も疑問を抱かないから、漸進主義を絶対化するカルトだと言うのだ。種を外形の違いや時空の隔たりなどの物質的基準で定義することはできない。種を定義できる唯一の方法は交配可能性である。その理由は、種の実体がDNA情報であり、その情報の最もコアな部分が、同じ種の個体が共通して受け継ぐべき胎児発生プログラムだからである。そしてもちろん各個体の実体もDNA情報である。これを以下では「個体情報」と呼び、全個体に共有され種の特性を形成する部分のDNA情報を「種情報」と呼ぼう。
「実体とは情報である」という命題を理解するために、種より前に「個体の実体はDNA情報である」という命題から考えてみよう。唯物論者は「個体の実体は肉体であり物質である」としか考えられないが、この誤りは明白である。既に前章の図2-1で示した通り、全体の自己同一性は部分の交替によって支えられている。川の水が常に入替っているように、個体の細胞も日々入替っている。だから、物質そのものを実体と考えるのは哲学的に幼稚過ぎる。日々入替る物質が同じ実体としての自己同一性を保ち続ける力はどこから来るのか?それは物質の集合を一つのシステムとして統轄する情報の力しか有り得ない。
だから、真に自己同一性を保って実在する実体は、物質ではなく、それに形を与える情報なのである。そもそも物質そのものが情報で出来ていることは量子力学が既に明らかにしたわけだが、この詳細については哲学編で語ることにしよう。で、個体の実体が単なる細胞の物質的集合ではなく個体情報であることを理解できれば、種の実体が種情報である、つまり、種の実体は単なる似たような姿の個体の集合体ではなく、種としての自己同一性を保つ力として実在している種情報である、ということも当然の結論となる。
そもそも情報が実在する実体であるということすら分からないダーウィニストが多いが、現代人にとっては、これは既に常識でなければならない。少なくともDNA情報が立派に実在性を認められているということは極めて大きな存在論的進歩である。情報とは即ちソフトウェアであるが、今では外部記憶媒体なしでソフトのオンライン販売ができるので、ソフトウェアの実在性は子供でも分かる事実となっている。コンピュータはハードウェアとソフトウェアで構成されるが、コンピュータの種別はハードとソフトのどちらで決められるだろうか?明らかにハードのメーカーではなく、ソフトが種別を決めている。
ゆえに外見は全く異なる二機のパソコンAとBの間で、両者が同じ種類と認められるか否かを決定するには、根本的な共通機能が動作するかどうか対話するプログラムを走らせれば良い。そして「根本機能が同じである」という動作確認が取れれば、同じ種類であると決定することができる。生物種の場合にその対話に相当するのが交配なのである。このように単純明快な話であるのに、ハードの仕様の些末な違いを調べて同じ種かどうかを決めようとしているのが、全く愚かなダーウィニストの現状であることを理解して頂きたい。
生命体をシステムとして見る観点さえ持てれば、全てのシステムには一定の許容範囲でパラメータを変更して動作環境に適応する能力があることも理解できるはずだ。それが小進化であるが、それはシステム自体が変わったわけではないから正しい意味での「進化」ではない。同時に、そのパラメータ変更は無限にできるわけではなく許容範囲があるのだから、パラメータをどんどん変えていけば別のシステムになるなどと考えることがいかに愚かであるかが分かるだろう。これがダーウィニズムの漸進主義の誤りである。
[飛躍的進化に気付いたグールド]
旧システムが動作しながら新システムに進化するためには、旧システムの記憶装置の中に表に現れない隠し領域を確保して、そこに新システムを潜在能力として蓄積し、変わるべき時に旧システムから新システムに切り替えるという方法を取るしかない(図3-1参照)。これが即ち大進化である。この大進化が漸進主義では説明できず、飛躍的な進化であることを正しく見抜いたグールドは、ダーウィニズムの問題点を率直に認める健全な精神を持ち、中立進化説を正当に評価できる偉大な進化学者であった。以下ではそのような彼がいかにして大進化の原理を発見する一歩手前まで近付けたのかについて見て行きたい。
グールドの最大の功績は、断続平衡説を唱えて、大進化が飛躍的進化であるという現実をありのままに認めたところにある(これが創造論者に悪用されたと彼は嘆いているが、事実は事実として認める他はないし、その事実から創造論でもダーウィニズムでもない正しい結論を導くのが本書の目的であり、グールドは結局それに失敗した、ということについて以下では述べる)。グールドの専門分野である古生物学において、生命の歴史の大部分における「種の不変性」と一時的現象としての「飛躍的進化」という一見相容れない二面性は、もともと明らかな事実であった。グールドは次のように語る。
ほとんどすべての化石生物の歴史には、漸移観とまったく相容れない二つの要素がある。
第一は、静止ということ。生物の大多数の種は、その地球上での生存期間中には方向性をもつ変化を示さない。そのような種は、化石記録に現れたときも消えていくときもまったく同じであるように見える。形態上の変化はふつうかぎられており、しかも無方向である。
第二は、突然現れること。どんな地方でも、ある生物の種は、その祖先が少しずつ変形することにより徐々に現れてくるのではなく、一挙に「完全にできあがった」状態で出現する。
『パンダの親指(下)』文庫版p.14
全ての古生物学者にとって、これは否定できない経験的事実であるにも拘わらず、それはグールドがこのように正直に表現するまで「口にされない困惑」(『進化論の何が問題か』p.80)であり続けた。しかし、一九七二年にグールドがこれを「断続平衡説」として問題提起したことにより、もはや誰も無視することのできない進化論の宿題として認知されるようになったのである。
上記引用文の直前でグールドは「われわれが拒絶すべきものは漸移観であって、ダーウィニズムそのものではない」と語り、あくまでも自分はダーウィニストであると自己規定している。この漸移観つまり漸進主義は進化を必然的に導く偽りの神となっている自然淘汰への信仰であり、さらに本音では生命の必然的進化能力への信仰になっていることを前章で語った。このように安易なダーウィニストの必然性信仰(つまり決定論)をグールドは許すことができず、ダーウィニズムのもう一つの柱である偶然性を強調していく。
しかし、偶然性を強調するのであれば、進化の原因は自然淘汰ではなく百%の偶然であるという透徹した認識に至るべきであったのに、その余りにも恐ろしい事実を直視できず、偶然と言う代わりに前適応(八十年代からはさらに偶然性を強調した外適応)という欺瞞的な言葉で言い逃れるしかなかった。前適応という場合は過去に適応的理由があって準備された形態、外適応という場合は特に適応的理由もなく偶然に準備された形態が、全く新しい機能を偶然に果たすようになったというのだから、結局全て偶然と認めているわけである。しかるに、全て偶然が準備してくれた新しい機能を自然淘汰が発見したのだから進化は自然淘汰の功績だという厚顔無恥な功績泥棒の誤りに彼も結局は陥ってしまった。
多くのダーウィニストはグールドの外適応が偶然性を強調し過ぎるとして嫌悪し、前適応と言った方が自然淘汰説を守れると思っているようだが、実際にはどちらでも同じことである。「過去に適応的理由があったから自然淘汰で進化した形態」と言ってみても、その形態が新しい別の機能を果たすようになった理由の説明には全くなっていない(要するに自然淘汰という言葉は進化の説明において全く不要であり、信仰を失わないためだけの念仏と化しているので、オッカムの剃刀によって切り捨てられなければならない)。この前適応という言葉の欺瞞性については最後に糾弾することとして、先ずグールドが飛躍的な大進化を何とか前適応や外適応で説明しようと考えた経緯を見て行こう。


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