[細菌の進化は全く次元が異なる]
さて、乏しい「進化の実証例」の中でも、特別に批判すべきは耐性菌の話である。そもそも細菌の進化は我々(つまり有性生物)の進化とは全く別物であるのに「進化の実証例」と考えること自体が既におかしい。このおかしさの背後には、ダーウィニストの本音と建前の乖離という大問題がある。先ず、彼らは本音において、全ての生物の進化を細菌の進化と同じように考えているので、両者を区別することができないのである。その一方で、彼らの建前は自然淘汰説であるが、これは根本的に誤っているために「有利な突然変異」の概念を細菌と同次元では語れない。このおかしな建前から先ず批判すべきだろう。
もちろん本音の方も批判するが、これは理論以前の直観に過ぎない進化信仰なので、その直観がどのように形成されたかの種明かしをした上で最後に正しく再解釈してあげよう。以下では、我々(これは曖昧な言葉だが「複雑なシステムとなった有性生物」という意味で理解して頂きたい)の進化に関するダーウィニストの建前としての理解を「建前進化」、本音としての理解を「本音進化」、そして細菌の進化は「細菌進化」と呼ぶことにする。
建前進化と細菌進化では「有利な突然変異」の獲得と増殖の過程がそれぞれ全く異なる。先ず注意すべきは、建前進化の「有利な突然変異」は、概念そのものがインチキで、存在しないということである。しかし以下では百歩譲ってそれが存在すると考えてみたらどうなるかということを語る。細菌進化においては、例えば薬剤耐性の獲得は既に進化完了に等しい。本音進化も同様に「進化に等しい巨大な突然変異」を想定する。これは建前進化が「進化の始まり」と想定する微小な「有利な突然変異」とは全く別次元の話となる。
建前進化が想定する「有利な突然変異」は限りなく微小なものに限られる。ダーウィニストもそれは確率的に極めて稀だと普通に分かっていて「それでも無数の突然変異があれば有利な突然変異もあるだろう」という根拠のない期待で無理やり考え出したものだから、微小なものしか想定できないのだ。「巨大な突然変異があったって良いじゃないか」という本音進化の通俗的イメージは、理論的には「言ってはいけないこと」として抑圧される。
しかし、どれほど「微小なものだけ」に話を限ったとしても、システム的観点から「無理なものは無理だ」として否定されるのである。それは遺伝子の変更が極めて危険な冒険だからである。複雑なシステムでは部分の勝手な変更が全体の生存を致命的に脅かすので許されず、遺伝子として使われていないジャンク領域の中立進化のみが許される。ギャンブル的に言えばハイリスク・ノー(LowではなくNo)リターンであるのに対し、逆に細菌進化の場合はロー(これも実際にはほとんどNo)リスク・ハイリターンとなるのだ。
細菌は、突然変異に失敗しても、その個体は死ぬがクローンは生き残るという意味で不死身である。同時に、組織の束縛のない個人事業なのでギャンブルの成功率は高い。彼らはリスク管理など知らない。ただ好き勝手に突然変異を繰り返すのみである。それにより確かに彼らは様々な遺伝子を創造するという偉大な役割を果たしている(この遺伝子工場という彼らの役割については第四章で明確に述べる)。ということで、細菌進化は好き勝手な突然変異が致死的エラーともなり偉大な創造ともなる、ギャンブルの世界である。
以上は「有利な突然変異」の獲得過程の話であったが、その増殖過程でも建前進化と細菌進化では天地の差がある。細菌進化では進化完了済だから増殖は当然の結果に過ぎない。一方、建前進化の微小な「有利な突然変異」の運命はどうか?最初は天涯孤独な「有利な突然変異」が、数代で滅亡する宿命に抗い、何とか奇跡的にその遺伝子を受け継いでくれる子孫を増やしていく苦難の道行きについては、既に第一章で見た。そこは暴力的な偶然が支配する中立進化の世界であり、極微の「生存の有利さ」など何の役にも立たない。
この有性生殖の過酷な現実が骨身に沁みて分からないところから、本音進化の通俗的理解が生まれる。即ち、細菌が自由に増殖するのと全く同じイメージで「有利な突然変異は直ちに種内で拡がって行く」と無意識レベルで考えてしまう。そして「有利な突然変異」の獲得についても、細菌と全く同じように可能だと思っている。さらに、その「有利な突然変異」が既に一つの進化完了に等しい巨大なものだと、誰もが当然のように考えている。これは素人だけでなく多くの進化学者も本音ではそう考えていることは明らかである。
[自然淘汰は中立進化の功績泥棒]
だからこそ現代人は、細菌の進化と我々の進化を区別することができないのだ。このように進化を余りにも安易なものと考えてしまう現代人の進化信仰は、進化を具体的に描写するSF映画等を見れば明らかである。例えばX-MENにおいて、超能力者は突然変異によって一瞬で出現すると表現されるし、猿の惑星ではサルが薬を摂取するだけで高度な知能を獲得する。またポケモンの進化は目の前で変態が起きるような現象として描かれる。
これが即ち、全ての現代人が無意識の直観として考えている本音進化のイメージである。このような本音進化のイメージは、現実に目の前で起きている生物の個体レベルでの驚くべき変化能力から得られた直観である。特に最も神秘的な例は蝶の完全変態である。ポケモンの進化も当然ここから着想されたのだろう。これを見て明らかに学べることは、生物が全く同じDNAを使って全く別の姿になれるという事実である。ここから、環境の変化に即応して個体の多様性が可逆的に入れ替わる小進化も、不可逆的な種分化を起こす大進化も、変態と全く同じ原理で可能になると気付けるはずだが、なぜか誰もできない。
変態と進化は違うけれど、飛躍的変態は飛躍的進化の原理を教えている。現代人はこれが全く見えず、漸進的変化を漸進的進化と誤認することしかできない。そこで先ず、変態する蝶が同じDNAを使って次々と姿を変えるメカニズムを見よう。これは言われてしまえば簡単で、幼虫の時、蛹の時、成虫の時で使うDNA領域を切り替えるのである。その制御自体が驚くべきものだが、とにかく切替制御は遺伝子スイッチの得意技であり、簡単にできる。真の問題はその制御自体ではなく、それを可能にした潜在能力の存在である
つまり、蛹になるための潜在能力があり、蝶になるための潜在能力がある。それは初めからDNAの中に準備されている。遺伝子スイッチの役割は、そのどちらの潜在能力を使うかを切り替えるだけである。その切り替えだけで、全ての細胞が溶けて蛹になり、さらにそこから蝶の体を組み立て直す変態が可能となる。進化でも同じで、多様な個体を生み出す潜在能力があり、新しい種を生み出す潜在能力さえもある。で、問題は、その膨大な潜在能力を準備するため、悠久の中立進化の歴史が必要であったという事実なのである。
この中立進化が潜在能力を準備した功績を無視してはならないのに、人々の本音のイメージからは、この問題意識がすっぽりと抜け落ちている。あたかも、その潜在能力は生命の中に世の初めから備わっていたかの如き生命信仰が、進化信仰のさらに深奥に存在する。例えば地球のような星が存在すれば、そこに生命が誕生するのも必然であるという決定論がその根底にはある。従って宇宙人の存在も必然と考える人々が多い。これは生命そのものを世の初めから存在する神として信仰する迷信であることがなぜ分からないのか?
もう少し科学的に考えれば、我々を生み出すために、どれほど膨大な中立進化が必要であったか、その確率を許容するために、どれほどの宇宙空間と地球時間が必要であったかに思い至るはずであるが、これとても「真の神」の存在を認めた上で「意図的偶然」の可能性を論ずる形而上学なので、詳細は哲学編で説明する。この科学編では、あくまで進化の科学的理解に限定しよう。序論で語った進化の三段階は以下の①→②→③であった。
①潜在能力を準備した中立進化
②遺伝子スイッチによる現実化
③進化完了した後の当然の増殖
このうち③は進化完了後の話だから実際は不要であり、①はカンブリア大爆発の前後で二段階に分ける必要があるため、結論は別の形の三段階進化論となる(これについては第四章で語る)。とにかくここでは、本音進化は何をどのように誤認したものであるのか、その種明かしと正しい再解釈について説明しよう。先ず、本音進化とは、①の潜在能力を生命が世の初めから備える神秘的能力と誤認する生命信仰であり、②を巨大な「有利な突然変異」と誤認して、③の増殖を「自然淘汰」の偉大な力と誤認する進化信仰である。
それゆえ、本音進化を以下のように再解釈すれば正しい進化論になれることを指摘する。①生命の神秘的能力を無意識で認めているのだから、それを中立進化の働きであると科学的に再解釈すること、②巨大な突然変異も認めているのだから、それを遺伝子スイッチの働きとして正しく認めること、③以上で進化は完了しているので自然淘汰は不要であると認めること。しかしながら、中立進化の功績を生命自身の力と誤認した本音の誤りを理論で隠蔽するために、全てを自然淘汰の功績と詐称する建前進化は絶対に許されない功績泥棒であり、この犯罪行為を完全に悔い改める以外に進化論を救う道はない。
さて、ここまで小進化も大進化も蝶の変態と同じ原理で理解できるという説明をして来たが、次の章ではいよいよ、小進化と大進化の違いについて踏み込んで行かねばならない。「小進化」とは実際には進化ではなく、あくまでも「同一種内での変化」に過ぎない。では「同一種」とは一体何であるのか?一方で「大進化」は「新しい種の誕生」である。ではここで「新しい種」として誕生するものは一体何であるのか?これは極めて深い哲学的な問題であるからダーウィニストには全く理解できなかったのである。そこで、次章では「実体とは何か?」という古代以来の難問から哲学的な議論を始めていかねばならない。


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