前回、進化信仰を批判するのはAI信仰を批判するためだと語ったが、この関連性が今一つ分かり難かったかもしれないので、もう一度説明しておこう。本来、AI信仰は科学信仰に直結するものである。科学が現世救済を約束してくれる神であるならば、その究極的産物であるAIが神となるのは自明であり、それを数学的に証明することも可能だと信じられた。フレーゲからゲーデルに至る数学基礎論の隆盛は、数学が神に代わって真理を保証できると証明することを夢見る数学崇拝に導かれていた。しかし、その数学崇拝はゲーデルの不完全性定理によって打ち砕かれ、数学基礎論は過去の黒歴史と化したのである。
結局、AIが神に成り得ることを数学的に保証することはできない。まともな科学者なら、AIは便利な道具だが神にはなれないという健全な常識を持てるはずだ。ならばなぜ、AI信仰を喧伝して恥じない自称科学者が居るのか?その元凶こそ現代のパラダイムとなっている進化信仰である。AI信者たちは、数学的保証はできなくても、全てのものは必然的に進化するという進化信仰により、AIが自分で自分を進化させて人間の知性を超え、神になる日が必ず来ると盲目的に信じているだけなのだ。これがAI信仰の実態である。
だからこそ進化信仰の方を優先的に批判したのだが、本来の嘘の始まりである科学信仰について、それが既に科学自身によって否定されているという事実を語らずに済ませることはできないので、今回はそれを語る。科学信仰は十九世紀に絶頂に達し、ダーウィンも生んだが、フレーゲも生んだ。フレーゲは一般には余り知られていないが、デカルトやライプニッツの夢見た理想言語(それを用いて語れば、その内容は真理のみであり、誤謬は起こり得ない言語)の完成を目指し、理想言語を構築するための武器となる記号論理学を整えたと思われたため、彼に続く論理実証主義者に絶大な影響を与えた論理学者である。
真理は人間が語るものであって、言語は真理を語るための道具でしかない。しかるに、西欧文明には、言語自体に真理が宿るかのような驚くべき言語崇拝があり、これはもはや人間が主体的に思索すべき責任を放棄した本末転倒の思想であると言わざるを得ない(これは理性論の陥る本末転倒で、進化論の誤りは経験論の陥る本末転倒であることを次回に語る)。そもそもヨハネ伝の冒頭にロゴス(言葉)を神格化するかのような有名な文言があり、これがイエスを神格化する際に便利に使われ、キリスト教神学者はイエスとロゴスを同義語のように語る。イエスは言葉でしかないのか?愛はどこに行ってしまったのか?
さて、フレーゲを研究したラッセルは、フレーゲの公理系に「ラッセルのパラドックス」と呼ばれる致命的な矛盾が生じることを発見し、フレーゲを大いに落胆させた。ラッセルはこの問題を階型理論で克服したと自負してホワイトヘッドと共に『プリンキピア・マテマティカ』を著し、これこそ理想言語か?と思われた。もし本当に理想言語が実現できたなら、それを機械に教えれば機械が全ての思索を代行してくれて、人間はもはや考える必要がなくなるとまでホワイトヘッドは言った。これこそAI信仰に直結する責任放棄と本末転倒であるが、この理想実現のためにノイマンはコンピュータを発明したのである。
数学者たちの能天気な夢とは裏腹に、近代数学は様々な危機に直面した。特に、非ユークリッド幾何学の発見は、ユークリッド幾何学は現実世界と一致しているという事実によって真理であるという素朴な信念を破壊した。それゆえ、ヒルベルトは公理系の真理性の基準は現実との一致にあるのではなく、その整合性(無矛盾性と完全性)にあると考えるべきだとする公理主義を唱えた。しかし、数学の無矛盾性を証明することを目指したヒルベルト・プログラムはゲーデルの不完全性定理によって失意のうちに幕を閉じた。
この不完全性定理の衝撃は各界に及び、多くの哲学者は全く恣意的な解釈をした。中でも「ゲーデルは神の不在を証明した」などという数学と神の区別もできない神観の貧困には呆れ果てる。ゲーデルが否定したのは神格化された数学であって、数学という偽りの神が否定されれば、真の神は逆に復権するのである(という認識論的考察は次回に語る)。ヒルベルトの夢は数学が矛盾を生じない絶対的真理であると証明することであり、その夢が叶えば、数学は全ての真理を保証する神となり、数学を用いる科学の粋を集めたAIもまた神となれたはずだった。しかし、その夢はまさしく夢に終わったのである。
ゲーデルの不完全性定理とは「ある公理系が集合論を含めば、その公理系は不完全であり、自分自身の無矛盾性を証明できない」というものである。『プリンキピア・マテマティカ』(だけでなく実質的に全ての数学)も集合論を含むので無矛盾性は保証されず、従って理想言語ではない。そもそも誤謬を全く語れない理想言語などを夢見たこと自体が言論統制と同じ誤りであって、言語というものは矛盾とも思えるような逆説をも自由に語れるからこそ、何でも語れる柔軟性を持つのである。言語とは冷たい理屈をこねるためにあるのではない。むしろその柔軟性により、無限に豊かな精神宇宙を創造するためにこそあるのだ。
公理系の不完全性とは真とも偽とも証明できない命題が一つ以上あるということだが、簡単に分かる有名な例は嘘つきパラドックスであり、不完全性定理はその見事な応用である。「私の言うことは全て嘘です」という人が居た場合、それが本当なら嘘であり、嘘なら本当である。論理計算しかできないコンピュータは、ここで行き詰まり、嘘つきパラドックスが永遠に解けない。それに対して人間は、理屈だけで考えているのではなく、一見矛盾した言語表現の中に高次元の真理を見る「人としての心」を持っている。この理屈を超えて真理を悟る心を私は霊性と呼ぶ。真理認識とは論理ではなく心の能力である。
私が「自分の頭で考え、自分の心で判断する」という言い方をするのは、考える理性と価値判断する霊性を明確に分けて考えているからである。AIがシミュレートできるのは理性が限界であり、機械に霊性は無いのでAIが真理を語る日は永遠に来ない。理論的にも実践的にも「何が正しいか?」という価値認識は理性を超えた霊性の問題である。こうして今回は西欧文明の宿痾である理性論を批判克服し、次回はさらに経験論を批判克服して、それでようやく進化論批判の準備作業を完了することができる。
コメント