前回、神が居るか居ないかではなく「正しい神観とは何か」が問題だと書いた。無神論者は「神は居ない」と言っている以上、当然「神とはいかなる存在であるか」を知らない。自分が何を否定しているのかも知らずに否定することはできない。だから無神論者は「神は居る」と主張する有神論者の神観を仮に借用した上で、そんな神が居るとは思えないと言っているわけである。それは仮に(例えばキリスト教から)採用した一つの神観に対する感情的反発でしかないので、神の不在証明には全くなっていない。そもそも何かが存在しないことの証明は「悪魔の証明」と呼ばれ不可能であることは既に常識である。
従来の有神論者自身が、神に出会ったこともないのに「神とはいかなる存在か」について勝手な幻想を語っていただけだとしたらどうか?幻想でしかないものが存在しないのは当たり前である。無神論者が従来の有神論者の神観を幻想だと見抜いたからといって「だから神は居ない」と結論する権利は彼らには無い。誤った神観を大前提として「神が居るか居ないか」と議論するのは全く無意味であり、我々に真に必要なものは「それなら納得できる」と心から思える正しい神観なのである。それを探そうともせず、キリスト教の神観が否定されれば、それは直ちに神の存在そのものの否定に等しいなどとなぜ言えるのか?
その意味で無神論者も結局、キリスト教の神学的決定論が唯一の可能な神観だと思い込んでいる西欧中心主義者でしかないのである。だから我々はキリスト教以外に正しい神観の候補を探すべきであり、実際それは日本に存在するのだ。その事実に日本人自身が気付いていないことが大問題である。しかし今回はそれより先ず西欧的神観の誤りを徹底的に糾弾することから始めよう。無神論者が反発するのは、キリスト教の神が余りにも無慈悲な「審きの神」としてイメージされているからである。異端審問官は神を絶対的支配者とする偽りの神観により、自分たちが神に代わって異端者を焼き殺す権利があると正当化した。
人間は神の奴隷であり、神は奴隷の生殺与奪の全権を握る絶対専制君主と考えられた。それは実際にそのような支配者が当たり前であった西欧古代の現実を反映したものだろう。しかし結局、それはローマ教皇が各国の王さえ跪かせる全キリスト教世界の支配者となるためであって、神を全世界の未来を完全に決定する全能の力を持つ絶対的な支配者とし、自分はその代理者であると称することによって、信者を力で支配する絶対的権力を得た。これは信者を愛で導くべきキリスト教指導者が力に頼るという驚くべき責任放棄である。この神観は、自分の努力で真理を求めるべき信者の側の責任放棄をも助長し正当化する。
人生の全ての疑問において「そうなったのは神がそうなるように決めたからだ」と言われれば、それ以上の理由を考える必要がなくなり、心は確かに休まる。しかし、それは真理を悟ったからではなく、思考停止のぬるま湯の中で眠り込んでしまった偽りの安定であり、これこそがカルトの悪であると私はしつこく語ってきた。ところでこれは中世的カルトだけの問題であろうか?現代人は科学を新たな神として絶対的に信仰し、同様の思考停止に陥っているのであって、科学者の言葉(いわゆる「専門家の意見」)を絶対化し、より根源的には自然法則が宇宙を支配する絶対的な神であるかのように崇拝する。この科学信仰の方が、現代においては中世的な迷信よりよほど深刻な問題なのである。
例えば、科学者と称する人間が「あなたは自由に行動していると考えるが、それは幻想に過ぎない」「物質法則が脳も体も全て支配しているのだから、人形師に操られている人形が自分は自由に動いていると勘違いするのと全く同じことだ」などと平然と語る時、実際、何かに操られているような生き方しかできない自身の本質を彼らは自分で暴露している。このような決定論は、その人間が自分自身と世界の未来に対して主体的に関わろうとせず、全てが自分と無関係に決定されている(つまり何らかの強大な力が決定してくれている)ものとして、自らはお客さんとして眺めているだけの見物人的怠惰に根差している。
こうして思考停止した決定論者は人生も宇宙も根源的に予測不能なカオスであるという明らかな経験的事実を認めることができず、頑なに不確実性の現実から目を背ける。それを認めてしまえば、人生においても科学においても確実な結果を保証してくれるものが何も無いわけだから、人生においては自分だけが頼りの強靭なサバイバル努力が必要となり、科学においては中立進化説のように偶然の要素を決して無視せず方程式に正しく組み込んで考える緻密な思考努力が要求される。彼らはその責任に耐えられず、面倒な責任を放棄して思考停止の安全地帯に逃げ込み、その安直な生き方を正当化する自己絶対化に陥る。
「全能の神が全ての未来を決定している」という中世的な神の絶対化を「神学的決定論」と呼び「自然法則が全ての未来を決定している」という近代的な科学の絶対化を「科学的決定論」と呼ぶ。これらはどちらも、全てを決定してくれる強大な力を絶対化し、人生や科学の様々な謎について自分の頭で考える責任から逃避しようとする根本的怠惰である。その強大な力が神から自然法則に入れ替わっただけで、この根本的誤謬が西欧文明には一貫して受け継がれているのである。二つの決定論は全く同根であるがゆえの近親憎悪で対立し、啓蒙主義の時代から現代まで不毛な「科学と宗教との闘争」を続けている。
ところで近代科学は初めから宗教の敵として現れたのではない。ガリレオ裁判を「科学と宗教との闘争」と見るのは事実誤認でしかないが、この話は長くなるので今回は省略し、科学的決定論が現れる最大のきっかけとなったニュートンから話そう。彼自身の中でも、まだ科学と宗教は敵対関係ではなかった。これを「ニュートンさえ中世の迷信の残滓を抱えていた」などと評するのも全く的外れである。しかしとにかくニュートンが天体も地上のリンゴも同じ重力に支配されているという驚くべき法則を発見したことにより、そのように偉大な法則を創られた神を称えようとしたニュートンの真意に反して、自然法則が新たな神となり宇宙を支配するという科学的決定論が物理学を支配してしまった。
要するに、来世の救済を(実際には嘘だが)約束した中世の神から、現世の救済を(これも結局は嘘になるが)約束するように見えた科学という新たな神に鞍替えしただけで、決定論というカルトの誤りが全く反省されず受け継がれてしまったというのが実情である。こうして物質の運動は全てニュートン力学の科学的決定論で説明できることになったが、神学的決定論の最後の砦は生命体の合目的性であった。しかし19世紀に現れたダーウィンが、こんなに素晴らしい生命がどうして生まれたのか?という謎を「自然淘汰」という魔法の言葉で説明した時、これが科学的決定論の最終的勝利と誤認されてしまった。
今日、20世紀の量子論から中立進化説までの流れによって決定論のパラダイムは完璧に否定されていることは誠実な科学者には既に明らかであるにも関わらず、人々の常識的思考は未だに決定論のままであると前回述べ、その理由を今回追及した。それは何でも簡単な理屈で(進化論で言えば「全ては自然淘汰の偉大な力である」という一言で)説明して欲しいと願う人々の根本的な知的怠惰によるもので、決定論という思考停止の安全地帯に怠惰な人々が逃げ込み続けるからである。
創造論者の方も「全ては偉大な神の業である」と未だに言い続けて進化の事実さえ否定し、創造論の神学的決定論と進化論の科学的決定論という二つの絶対的誤謬が、特にアメリカ合衆国で不毛な対立を続けている。このような状況が子供たちの教育に極めて有害であることは明らかだと思うのだが、誰も和解の道を示すことができない。そもそも和解の可能性さえ想像することもできず、両陣営とも互いを殲滅することしか考えていないという絶望的状況である。その和解の使命を果たせるのは日本人だけなのだ。そういうわけで次回は、創造論と進化論を具体的に和解するための弁証法について説明していきたい。
コメント