決定論は西欧文明の病

前回、神が居るか居ないかではなく「正しい神観とは何か」が問題だと書いた。無神論者は「神は居ない」と言っている以上、当然「神とはいかなる存在であるか」を知らない。自分が何を否定しているのかも知らずに否定することはできない。だから無神論者は「神は居る」と主張する有神論者の神観を仮に借用した上で、そんな神が居るとは思えないと言っているわけである。それは仮に(例えばキリスト教から)採用した一つの神観に対する感情的反発でしかないので、神の不在証明には全くなっていない。そもそも何かが存在しないことの証明は「悪魔の証明」と呼ばれ不可能であることは既に常識である。

従来の有神論者自身が、神に出会ったこともないのに「神とはいかなる存在か」について勝手な幻想を語っていただけだとしたらどうか?幻想でしかないものが存在しないのは当たり前である。無神論者が従来の有神論者の神観を幻想だと見抜いたからといって「だから神は居ない」と結論する権利は彼らには無い。誤った神観を大前提として「神が居るか居ないか」と議論するのは全く無意味であり、我々に真に必要なものは「それなら納得できる」と心から思える正しい神観なのである。それを探そうともせず、キリスト教の神観が否定されれば、それは直ちに神の存在そのものの否定に等しいなどとなぜ言えるのか?

その意味で無神論者も結局、キリスト教の神学的決定論が唯一の可能な神観だと思い込んでいる西欧中心主義者でしかないのである。だから我々はキリスト教以外に正しい神観の候補を探すべきであり、実際それは日本に存在するのだ。その事実に日本人自身が気付いていないことが大問題である。しかし今回はそれより先ず西欧的神観の誤りを徹底的に糾弾することから始めよう。無神論者が反発するのは、キリスト教の神が余りにも無慈悲な「審きの神」としてイメージされているからである。異端審問官は神を絶対的支配者とする偽りの神観により、自分たちが神に代わって異端者を焼き殺す権利があると正当化した。

人間は神の奴隷であり、神は奴隷の生殺与奪の全権を握る絶対専制君主と考えられた。それは実際にそのような支配者が当たり前であった西欧古代の現実を反映したものだろう。しかし結局、それはローマ教皇が各国の王さえ跪かせる全キリスト教世界の支配者となるためであって、神を全世界の未来を完全に決定する全能の力を持つ絶対的な支配者とし、自分はその代理者であると称することによって、信者を力で支配する絶対的権力を得た。これは信者を愛で導くべきキリスト教指導者が力に頼るという驚くべき責任放棄である。この神観は、自分の努力で真理を求めるべき信者の側の責任放棄をも助長し正当化する。

人生の全ての疑問において「そうなったのは神がそうなるように決めたからだ」と言われれば、それ以上の理由を考える必要がなくなり、心は確かに休まる。しかし、それは真理を悟ったからではなく、思考停止のぬるま湯の中で眠り込んでしまった偽りの安定であり、これこそがカルトの悪であると私はしつこく語ってきた。ところでこれは中世的カルトだけの問題であろうか?現代人は科学を新たな神として絶対的に信仰し、同様の思考停止に陥っているのであって、科学者の言葉(いわゆる「専門家の意見」)を絶対化し、より根源的には自然法則が宇宙を支配する絶対的な神であるかのように崇拝する。この科学信仰の方が、現代においては中世的な迷信よりよほど深刻な問題なのである。

例えば、科学者と称する人間が「あなたは自由に行動していると考えるが、それは幻想に過ぎない」「物質法則が脳も体も全て支配しているのだから、人形師に操られている人形が自分は自由に動いていると勘違いするのと全く同じことだ」などと平然と語る時、実際、何かに操られているような生き方しかできない自身の本質を彼らは自分で暴露している。このような決定論は、その人間が自分自身と世界の未来に対して主体的に関わろうとせず、全てが自分と無関係に決定されている(つまり何らかの強大な力が決定してくれている)ものとして、自らはお客さんとして眺めているだけの見物人的怠惰に根差している。

こうして思考停止した決定論者は人生も宇宙も根源的に予測不能なカオスであるという明らかな経験的事実を認めることができず、頑なに不確実性の現実から目を背ける。それを認めてしまえば、人生においても科学においても確実な結果を保証してくれるものが何も無いわけだから、人生においては自分だけが頼りの強靭なサバイバル努力が必要となり、科学においては中立進化説のように偶然の要素を決して無視せず方程式に正しく組み込んで考える緻密な思考努力が要求される。彼らはその責任に耐えられず、面倒な責任を放棄して思考停止の安全地帯に逃げ込み、その安直な生き方を正当化する自己絶対化に陥る。

「全能の神が全ての未来を決定している」という中世的な神の絶対化を「神学的決定論」と呼び「自然法則が全ての未来を決定している」という近代的な科学の絶対化を「科学的決定論」と呼ぶ。これらはどちらも、全てを決定してくれる強大な力を絶対化し、人生や科学の様々な謎について自分の頭で考える責任から逃避しようとする根本的怠惰である。その強大な力が神から自然法則に入れ替わっただけで、この根本的誤謬が西欧文明には一貫して受け継がれているのである。二つの決定論は全く同根であるがゆえの近親憎悪で対立し、啓蒙主義の時代から現代まで不毛な「科学と宗教との闘争」を続けている。

ところで近代科学は初めから宗教の敵として現れたのではない。ガリレオ裁判を「科学と宗教との闘争」と見るのは事実誤認でしかないが、この話は長くなるので今回は省略し、科学的決定論が現れる最大のきっかけとなったニュートンから話そう。彼自身の中でも、まだ科学と宗教は敵対関係ではなかった。これを「ニュートンさえ中世の迷信の残滓を抱えていた」などと評するのも全く的外れである。しかしとにかくニュートンが天体も地上のリンゴも同じ重力に支配されているという驚くべき法則を発見したことにより、そのように偉大な法則を創られた神を称えようとしたニュートンの真意に反して、自然法則が新たな神となり宇宙を支配するという科学的決定論が物理学を支配してしまった。

要するに、来世の救済を(実際には嘘だが)約束した中世の神から、現世の救済を(これも結局は嘘になるが)約束するように見えた科学という新たな神に鞍替えしただけで、決定論というカルトの誤りが全く反省されず受け継がれてしまったというのが実情である。こうして物質の運動は全てニュートン力学の科学的決定論で説明できることになったが、神学的決定論の最後の砦は生命体の合目的性であった。しかし19世紀に現れたダーウィンが、こんなに素晴らしい生命がどうして生まれたのか?という謎を「自然淘汰」という魔法の言葉で説明した時、これが科学的決定論の最終的勝利と誤認されてしまった。

今日、20世紀の量子論から中立進化説までの流れによって決定論のパラダイムは完璧に否定されていることは誠実な科学者には既に明らかであるにも関わらず、人々の常識的思考は未だに決定論のままであると前回述べ、その理由を今回追及した。それは何でも簡単な理屈で(進化論で言えば「全ては自然淘汰の偉大な力である」という一言で)説明して欲しいと願う人々の根本的な知的怠惰によるもので、決定論という思考停止の安全地帯に怠惰な人々が逃げ込み続けるからである。

創造論者の方も「全ては偉大な神の業である」と未だに言い続けて進化の事実さえ否定し、創造論の神学的決定論と進化論の科学的決定論という二つの絶対的誤謬が、特にアメリカ合衆国で不毛な対立を続けている。このような状況が子供たちの教育に極めて有害であることは明らかだと思うのだが、誰も和解の道を示すことができない。そもそも和解の可能性さえ想像することもできず、両陣営とも互いを殲滅することしか考えていないという絶望的状況である。その和解の使命を果たせるのは日本人だけなのだ。そういうわけで次回は、創造論と進化論を具体的に和解するための弁証法について説明していきたい。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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コメント

  1. 後藤 より:

    >人生も宇宙も根源的に予測不能なカオスであるという明らかな経験的事実を認めることができず

    これらが予測不能なカオスであるというだけでそれらの事実がただちに決定論を否定し、非決定論の正しさを証明してくれているわけではありません。
    なぜならそれは単に人間が五感を通じて世界と認識する知覚作用によってもたらされた物理的事象の諸々が単に人間にとっては予測不可能性を帯びているという事実の指摘に過ぎないからです。

    ですから「今にいる私が未来を観測しえない、ゆえに未来は不確定でありその未来のあり様は私たちの意志や行動によって規定しうる」と考えるのは発想の飛躍であり無明です。

    なぜなら量子論的不確定性が正しければ、ミクロレベルにおいて物理は絶えず瞬間瞬間の刹那において相互作用することによってデコヒーレンスを引き起こし、そのデコヒーレンスの厳密性によってマクロレベルの私達が認識する古典物理的世界が成り立っているというわけですが、その世界観においては当然瞬間瞬間の人間の意思及びそれに伴う行為決定も他の物理的事象と同様にデコヒーレンスによって確定しているので、実際には人の行為一切は意思以前の刹那によって確定していると言えるからです。

    すなわち人生や宇宙の根源的カオス性が量子的不確定性によって成り立っているのであれば、同様にその宇宙における物理的存在としての人もカオスの渦中にいる存在と規定出来るがゆえに、むしろあなたの神学的、哲学的主張を尊重すればかえってより厳密に人の不自由性が浮き彫りになるといえるでしょう。

    決定論の否定というのは単純に未来は不確定性だから決定論は間違っているというような単純な論法では成り立ちません。

    決定論を否定するにおいてはそれと同時に人の意思と行為において能動的に未来を決定する力があると認めなければいけませんが、人の意思と行為が物理から切り離されているのではなくむしろ人の意思や行為も他の物理的事象と同様に観測とデコヒーレンスによって確定するので実際には人が能動的に未来を決定することはできないのです。

    未来は不確定性を帯びているが依然として人の意思に未来を決める力はないので、むしろ人の目線で見れば
    やはり自分の意思のあり様に関わらず客体的に未来が規定されるという意味で決定論はやはり妥当です。

    これを無視して人の意思行為がカオスな未来を規定しうると考えるのであればそれは結局のところ神への不信といっても過言ありません。

  2. sansei より:

    先ず、私のブログを読んで下さっている人がいる!ということに感謝です。

    で、ミクロの非決定性とマクロの決定性についてですが、これは当然、デコヒーレンスあるいは確率論の大数法則によって成り立つ驚くべき世界の二面性と言えます。

    この二面性こそが我々の自由を保証してくれる神の偉大な賜物であります。マクロ世界が「表面的には決定論的に見える」という事実に信頼できなければ、一瞬先の予測ができないので、我々の行動の自由は成り立ちません。一方において、ミクロ世界の量子力学的不確定性は、我々に自由意志が存在するという現象学的あるいは実存的事実の科学的根拠となります。さらに、長期的なマクロレベルの不確定性は、ミクロの非決定性がマクロに増幅されるというカオス理論によって説明可能です。

    だから、この世界が根源的に不確定であるという認識は既に現代科学のパラダイムでなければならないのに、この「偶然の効果」を「そんなミクロの話は考慮に値しない」として切り捨て、マクロの議論しか出来なかったダーウィニズムが、既に中立進化説によって根本的に否定されたのです。

    このミクロと長期的マクロの不確定性において神が世界に働くのだと私は言っています。その中間の我々の自由行動においては、当然、我々の自由の責任が問われるのに、この責任から決定論で逃げようとするのが人間の根源的怠惰であり、全ての悪の温床となっているのです。

    神の意志はミクロと長期的マクロの偶然の事象に現れ、それを如何に霊的に聞き取ることができるかに、我々の人生と世界の歴史の成否は掛かっています。どうか、決定論という安易な思考に逃げないように、心からお願いする次第であります。

    • 後藤 より:

      >ミクロ世界の量子力学的不確定性は、我々に自由意志が存在するという現象学的あるいは実存的事実の科学的根拠となります。

      申し訳ありませんが、ミクロ世界における量子力学的不確定性が認められることとそれがただちに自由意志があることの証明になることについての因果関係が理解不能です。
      量子力学的不確定性というのは端的に申しますと「観測対象における位置と運動量を同時に測定することはできない」ということを言っているだけに過ぎず、その事実が確認されただけではヒトに自由意志があるか否かなど判断しようもありません。
      量子力学的不確定性が認められるとどうしてヒトに自由意志があると言えるのでしょう?不確定性原理はヒトの意志のあり様を論じる概念ではありません。

      もし仮にあなたが「量子スピリチュアル」的なものに嵌っているのであればそれは量子力学とよく似た「似非科学」ということになるでしょう。(もしも量子スピリチュアル的なものの信奉者でないというのならこのくだりは的外れとなりますね、その際はすみません)

      >この責任から決定論で逃げようとするのが人間の根源的怠惰であり、全ての悪の温床となっているのです。

      このような善悪観念については各々のポリシーがあるかと思います。
      しかしながら倫理命題というのは基本的に人文学に属するモノでありますから、私はそこに中途半端に自然科学を織り交ぜて論じるべきではないと思っております。

      参政党支持ということですと政治的には保守寄りでしょうから無論共産党などに対しては批判的なのだと思いますが、共産主義というのも元々は「科学的社会主義」と呼ばれており科学的なイデオロギーであることを売りにしておりました。
      しかしながらいかに科学的社会主義といえどもそれらが実際に科学的かどうかをプロの科学者集団が検証したわけではありません、その点において科学的社会主義における科学的というフレーズは結局のところ一介の人文学者に過ぎないマルクスとその信奉者たちによる自称に過ぎなかったとも言えます。

      とはいえ当時はそれを本当に科学的で唯一正解のイデオロギーだと感じる人が大勢いたからこそ20世紀はああいう歴史を辿ることになりました。

      政治におきましてその中軸に善悪二元論を置き、なおかつそれを正当化する根拠に科学などを持ち出しますと、結局のところその政治はそれを担う最大与党や行政当局によって規定されるであろう「自称科学的に正当性のあるとされる」が実際のところ単に恣意的な判断でしかない価値基準による統制を招くことになります。
      つまり何が正しいかというのを政治当局が一律に判断しその当局によって正しくないとされた側が断罪されかねない社会になりうるということですね。

      このことを承知していれば人文学的領域たる政治において中途半端に自然科学の概念を導入し、あまつさえそこから一定の恣意に基づいた善悪二元論的イデオロギーを主張することのリスクというのも理解できるのではないかと存じます。

      あなたのイデオロギーに関して、率直に言わせてもらえばあなたは善悪二元論は正しいという前提から逆算して政治的主張をしているという点で社会主義者と非常によく似ているという印象を抱きました。
      彼ら社会主義者たちにおいても、自らで恣意的に規定した「ブルジョワジー」を一方的に悪と定義しては断罪し「プロレタリアート」の暴力性を伴う革命によってそれを排除することを是としましたね。

      あなたの主張はその二の舞を踏むことになりかねないと思います。

      あえて言うなれば規定の善悪それ自体は揺れ動くことのない自明であると考えているであろう部分においてあなたが最初に述べた世界のカオス性とそれに伴う自由を正当化する根拠が結局のところ善悪二元論によって打ち消されてしまっているということです。

      もし仮に自明な善悪とそこから導き出せるであろうあるべき社会の理想像や正義がすでに確定しているのであれば、それは結局のところ決定論の一種じゃありませんか?

      私の決定論はどちらかといいますとヒトの行為意志決定は意志以前によって定められているという点にあり、未来が確定しているか否かというよりはヒトの意志が何によって規定されているかという関心を軸に
      「意志は意志以前の立ち振る舞いによって規定されるため、意志によって意志は定められない」という結論から導き出したヒトの根源的不自由さの性質を述べるものになります。

      分かりやすく言えば氷を常温の空間に放置すればそれがやがては解け出して水になるという事象を仮に氷自体に意志があったとしてもそれを氷の意志によって変えることはできないであろうというような主張であるといえるでしょう。
      (意志を以てして物理法則を捻じ曲げられる存在がいるとすればそれこそ神様くらい!)

      つまり「物理は意志に優越し意志は物理に従属する」ということになります。

      こうした考えをあなたが怠惰を肯定しうる考えだと懸念を抱く理由はわかりますが、あえていえば決定論的に振舞うヒトの精神的な性質において怠惰を良しとしない感情が生じることも決定論の内に含まれるので、その性質によって社会の秩序は一定の範囲に保たれると考えております。

      逆に言うと、万が一にも私のこの見解が外れた上でかつ一国ないし若しくは全人類が破綻しかねないような深刻な道徳的退廃が生ずるとすれば、それはそれで各種の宗教経典が予告してきた終末の合図そのものといえますので、それもまた定められた必然的滅びといえるでしょう。

      ですから決定論が直ちに人を一律に無責任かつ怠惰にするとは限りませんし、仮にそうなったとしてそれこそその時は堕落した人類がある種の自業自得的に滅びるだけということですから、そこに過剰な憂慮は不要と思っております。

      ひるがえって過度に道徳的退廃を懸念するがゆえ政治的に一律に善悪を規定して、それによってある種の人々の立ち振る舞いが当局から恣意的に「怠惰」であるなどと判断されかねない社会が構築されることこそ、20世紀の政治の歴史を踏まえればもっとも憂慮されるべきことと言えるでしょうし、私は決定論者であるからこそそのような社会を構築せずとも一定の倫理規範と秩序は保たれると思っております。

      以上、長くなりましたがこれが私の主張となります。
      あなたにおいて無論私の意見をすべて認める必要はありませんし、なんなら私自身の決定論的ポリシーにおいておそらくあなたのような人の意見はそうそう変わらないであろうと思っておりますが、それでも私の意見があなたの思想構築や思案を深める上での参考意見の一つくらいになれば幸いです。

  3. 後藤 より:

    追記

    一連のコメント欄でのやりとりについて自ブログの記事内においてこのブログをリンクする形で紹介させていただきました。

    もしそのような形でこのブログがリンクされることをお望みでなかった場合はその旨伝えて頂ければ該当記事は削除します。

  4. sansei より:

    御批判を読んでつらつら考えるに、先ずは自由の存在(というより、そのかけがえのない価値)という点において価値観が全く異なるということと、善悪の定義に関してこれまた全く視点が異なるということが伺えます。

    自由の存在については、科学的決定論の立場を取る限り全く認めることができませんが、カントは科学的決定論者でありながら自由の存在は自明であるという信念を捨てるわけにいかず、決定論と自由の両立を願ったわけであります。その結果は道徳律の絶対的支配という新たな決定論になってしまったわけで、どこまで行っても決定論的思考から逃げられないところに人間の根本的問題があると考えます。

    カント的立場の終着点として、全人類を絶対善の名のもとに一元的に支配する世界政府の必要性を説くようなグローバリズムが現れてしまったわけで、参政党はまさに、そのようなディストピアの到来を阻止することを最大の目標としております。善悪はカントが本来希求した各人の自由において、主体的に決定されるべき価値であり、それが他者といかに一致できるかという問題があるからこそ、神の必要性を私は説いているのですが、とにかく私のブログを全て読んで頂かないとこれが全く伝わりません。

    私は自由の存在を否定することは人間としての責任を放棄することだという信念だけはカントと共有した上で、自由の存在は自明である以上、証明する必要性すらないと考えます。しかしそれと科学が矛盾するということだけはあってはならないので、我々の魂が脳の神経活動によって支配されてしまうという決定論だけは否定するために、量子力学的不確定性によって、そのような支配が成り立たないことを主張します。

    脳細胞が全ての意識活動を支配する根拠が無いと言うことにより、少なくとも、脳以外の原因が我々の意志を決定する可能性を保持することはできます。それ以上のことは恐らく科学では語れず、ウィトゲンシュタインの言う通り、語り得ないことは沈黙するしかないわけです。

    次に、私の立場は善悪二元論ではありません。私はプラトンの「善のイデア」の存在を認め、それを霊的に認識する以外に善の認識はできないという立場ですが、だからといって、それをカントの道徳律のような理屈で決定することはできないと考えます。何が善かを理屈で語ることはできない。しかし、参政党の神谷さんの演説で魂が震えた経験を持つ人であれば、善が魂の共鳴として伝わることは分かるはずです。私はいわゆる「神谷信者」ではありません。自分にしても他者にしても一人の人間を神格化することは、それも決定論の誤りであり、さらに広い概念としては「偶像崇拝」という誤りとなります。

    私にとっての善悪を決定できるのは私自身の魂以外にありません。しかしそれは独善的な魂であってはならず、いかなる偽りの神にも支配されない真の神観を確立した魂でなければなりません。で、その「真の神」が新たなカルトであってはならないということを私はつらつら語っているわけです。私が科学について語るのは、神を科学の次元に引きずり落とすためではなく、真の神と科学は全く別の次元でありながら矛盾しないということを示すためであって、先ずそこから理解して頂かなければ、私が何を言っているのか全く見えてこないと思います。そこまで付き合う気はないというのであれば、これ以上言うことはありません。またいつか気が向いたら全文をつなげて読んで頂ければ幸いです。

  5. 後藤 より:

    なるほど、あなたの言い分はわかりました。
    確かに私も部分的にあなたのことを誤解していたようです、その点についていささか私の主張も的外れな部分があったことを認めその部分に関しましてはお詫びいたします。

    それを踏まえた上で
    >脳以外の原因が我々の意志を決定する可能性を保持することはできます。

    ここは同意いたします。
    ただこれに関して言えば脳以外の原因が我々の意志を決定すると致しますと、それはやはり形而上学的領域によって成り立ってくるということになりますね。

    あなた自身において「神」という言葉を肯定的に使われておられるわけですから、ここは否定する必要がないかと思います。

    ただそうなりますと、この脳以外の我々の意志を決定している原因というのはその原因が有する形而上学的性質な故に形而下にある我々の日頃の意識形態では把握することができません。

    結局それが何なのか具体的なことはよくわからない、であるからこそ人によってそれを「神」と称したり「魂」と称したりあるいは「霊」などと称したりするわけです。

    実際あなたの文面を読んでみても「神」や「魂」「霊」という表現が混在しておられます。
    つまり私達は己の意志を決定しているそれの正体を知らない。

    ところで自由というのは本来「自らに由る」という意味です、大元は仏教用語であったそうですね。
    ここで問題になってくるのは果たして己の意志を決定しているそれの正体が分からないのにそれを己と言うことに差し支えはないのか?ということです。

    いやこれはどう考えてもおかしい、それが己であるのならば私たちはそれが何なのかを熟知しているはずです、しかし実際はそうではない。

    そうではないのだとすればそれは意志決定において「自らに由る」とは言い難いのですから、自由とは言えずむしろ不自由ということになります。

    ここに私の決定論があります。

    氷が常温空間で溶け始めるというその物理法則自体は氷以前からあるものであり、氷自身によって規定されたわけではない。

    それこそ人間臭い言い方をするならこういった法則性こそ神の摂理であります。

    善悪や自由と責任の問題も同じことです。
    あなたのおっしゃる通り人は自由を追い求めつつ、それと同時にそれに伴う行為における善悪の是非と責任についても考えます。

    これが人の魂の性質なんだとして、しかしながら人は自身が生まれる以前においてこうした魂のあり方を自分自身で規定したわけでありません。

    自由を追い求める心も、善を追求する精神も、あるいは悪を糾弾しようとする振る舞いもそれら一切はいつの間にかそういう性質を有する私ないし我々がいたのであって、なおかつそれらの性質は生まれる以前の私たちが作り上げたわけではないのだからそれを「自らに由る」といっていいのか?というのが私の問題提起でありその自問自答に対するアンサーとして出てきたのが決定論ということになります。

    >私はプラトンの「善のイデア」の存在を認め、それを霊的に認識する以外に善の認識はできないという

    私の哲学はプラトン主義の延長線にあるものだと思います。
    「善のイデア」があるとすれば、しかしながらそのイデア自身を私たちが作り上げたわけではないのだから、人がイデアを追い求めるのは自由な振舞いゆえにではなく、むしろイデアを作り上げた側(神)からの要請であると。

    すなわち人が善のイデアを追い求める振舞いをするのは神からの要請に応えるためということになりますが、その性質自体が神によって定められているのならそれは自らに由ってはいないのだから、自由とは呼べないものである、それが私の究極的な主張となりますがこれはギリシャ的思想の王道だと思っております。

    しかしながらその善のイデアの内に政治的あるいは内心の自由が含まれているのであれば、その領域に限って人はある種の「自由」は得られるとも思っております。

    >私はいわゆる「神谷信者」ではありません。

    すみません、参政党支持者というとどうしてもそういう印象もありその点で以前のコメントにおける私の文面はそう言った人々に対する苦手意識からくるある種のキツさもあったかもしれません。

    その点についてはいささか偏見交じりな部分もありました、その点についてはお詫び申し上げます。

    ただ改めてこの返信を読んでいただければ、私の決定論が決定論である=ゆえに人は悪徳や怠惰に走っても構わないというような安易なニヒリズム的主張の擁護あるいは極度の悲観主義を述べているわけでないということだけはわかっていただけるのではないかと思っております。

    それでは一連のやり取りはこの返信を以てして一旦打ち切りとさせていただきます。
    双方ともに物事に対する多少の認識の齟齬あれど、最後まで丁寧に応対していただきありがとうございました。

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