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(4)真の喜びとは何か?

ここまで、自由は自律の喜びで平等は連帯の喜びである、ということを述べて来た。その喜びを知ることこそ、我々の人生の目的である。それは我々自身が達成すべきことであり、上から天下りで与えることは不可能であるから「神が居るなら、なぜ私は不幸なのか?」と問うのは自分自身の責任放棄であり神への責任転嫁である。
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(3)真の平等とは何か?

前回、真の自由の実現は実質的に不可能であるが、神の心を悟れば可能となると語った。真の自由が実現できない状態では、真の平等も実現できない。良く「自由と平等は矛盾するから両方を同時に実現することは論理的に不可能だ」と言われるが、これは自由と平等を権利としか考えないための誤りである。むしろ真の自由と真の平等は同じことである。
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(2)真の自由とは何か?

前回「全ての二面性は神の中にある」と言ったので、直ちに「善と悪の二面性も神の中にあるのか?」という反論が予想される。これはまさにプラトンが悩んだ問題である。しかし、善悪が具体的に現れるのは人間の自由な現実的創造の結果である。この自由の意味を先ず説明する。
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(1)真の神観とは何か?

前回、真の有神論は理論と実践であると語ったが、その実践のための力となる具体的理論を今回から語る。先ず、その流れを要約しておこう。それらは以下の四つの観点で語られる。(1)真の神観とは何か?(2)真の自由とは何か?(3)真の平等とは何か?(4)真の喜びとは何か?
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真の有神論はAの立場

ここまで、D類型、C類型、B類型と語って来たが、最後の神観はA類型と呼べるほどの集団が存在しないので「Aの立場」と呼んできた。それは「超越神」を「内なる神」として認識する立場であり、これこそが真の有神論である。私が「真の有神論」と銘打つのは、世の中のほとんどの有神論がインチキ有神論でしかないからである。
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日本精神に見るB類型

今回は、西欧的なC類型のアンチテーゼと成り得るB類型の神観について語る。B類型の神観とは「内在神」を「内なる神」とする立場であり、日本精神に代表される。日本精神は基本的に神道だが仏教も大きく影響しているので、B類型のBは仏教のBと考えて頂いても良い。
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神学的決定論はC類型

今回は、D類型の出現に対して直接的に責任を問われるべきC類型の神観について語る。C類型の神観とは「超越神」を「外なる神」とする立場であり、その代表はキリスト教の神学的決定論であるから、このCはキリスト教のCと考えても良い。
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科学的決定論はD類型

前回は想定可能な四類型の神観を示して「超越神」を「内なる神」として認識するAの立場が真の有神論であると述べた。今回はそこから最も遠いD類型の神観について説明する。それは「内在神」を「外なる神」として認識する立場で、その代表は科学的決定論である。
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想定可能な四類型の神観

前回、偶像崇拝の説明をしようとして非常に苦労し、結局、日本的な偶像崇拝の典型例という話しかできなかった。今読み直しても、いきなり偶像崇拝と言われて正しいイメージを掴める人は少ないだろうと反省している。しかしとにかく、様々な現れ方をする偶像崇拝を全て克服しなければ真の神観には到達できない。
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偶像崇拝は全人類の病

前々回に決定論は西欧文明特有の病であることを語ったが、その決定論の本質をより深く反省するなら、それは偶像崇拝という全人類共通の病であることを今回は語る。
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