(2)真の自由とは何か?

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前回「全ての二面性は神の中にある」と言ったので、直ちに「善と悪の二面性も神の中にあるのか?」という反論が予想される。これはまさにプラトンが悩んだ問題である。彼が善のイデアの実在を説いた時「ならば悪のイデアも実在するのではないか?」と反論され、結局、晩年の著作で渋々、悪のイデアの実在を認めた。しかし、ここで注意して欲しいのは「神が悪のイデアを創造した」というのはあくまでも可能的創造であり、決して「神が現実的に悪を創造した」ということではない、ということである。善悪が具体的に現れるのは人間の自由な現実的創造の結果である。この自由の意味を先ず説明する。

人間が本性的に自由を求めるのは何のためか?それは好き勝手に生きるためではなく、自分が本当にやりたいことをやるためだろう。ところで自分が本当にやりたいこととは「私はこれをやるために生まれて来た!」と心から思えることであって、自分で適当に決められるようなものではない。それは「天命」とも呼ばれるように、神が自分のために定めた必然の道と感じられなければならない。人生の第一の目標は、その天命を探すことである。この第一の目標さえ持てない者は、サルトルのように「自由は刑罰だ」としか思えない。そして実存の虚無に脅かされながら人生を全く無意味に生きるのである。

しかし、多くの真面目な若者は自分の命を燃やす何かが欲しいと思って政治運動や宗教運動に参加する。それは多くの場合、何かの正義を絶対化するカルト運動でしかないだろう。それでも何もせず無気力に生きるよりは、どんなカルトでも真剣に向き合い、矛盾に直面して挫折するという経験は大きな学びとなる。挫折もせず一生同じカルトを信じ続けるようでは真剣に生きていない証拠になってしまう。とにかく何事にも命懸けで取り組む者には、いつか必ず自分の天命にぶち当たる時が来る。誰からの強制でもなく、自分で必然の道を悟った時、それがサルトルの不安から解放される第一段階の自由である。

禅宗には「必然への随順」という教えがある。「これが自分の歩むべき必然の道だ!」と悟った時、全てのしがらみを捨ててその道に随順する決断こそ真の自由だという意味である。これも誰かに強制されて決断させられたのでは駄目なのであって、あくまでも自分自身が責任主体として選び取るということ、この自律的な決断が第二段階の自由である。そうして選んだ天命の道に邁進する者には迷いが無い。迷いがあるなら天命ではなかったので、直ちにやめた方が良い。一切の迷い無く目標に向かって突き進む者は「これが本当の自由だ!」という真の解放感を得る。これが完全に解放された完成段階の自由である。

そして、その目標を成し遂げられたなら、もうこれで死んでも良いと思うはずである。だから、真の自由の実現とは即ち自分が生まれてきた目的であり、神が我々一人一人を創造した目的そのものなのである。各人の自由の目標はもちろんそれぞれ異なる。それゆえ我々は唯一無二の個性を持ち、各人の個性を完成することにより神の唯一性に似た者となる。一方、神は存在としては唯一だが、無数の人間の達成すべき目標を善のイデアとして創造し、その目標実現という無数の夢を抱き導く。プラトンが認めた悪のイデアは「決して実現してはならない」という戒めの意味であり、神が悪の実現を願うわけはない。

さて、真の自由は以上のようなものであるが、一般通念としての自由は「不自由なく好き勝手に生きられる」というものでしかない。それは肉体を思った通りに動かせるという動物と同じ次元の自由であり、物理的自由と呼ぶ。上述の真の自由は善の目標を願った通りに達成できるという全く異なる次元の自由であり、これを倫理的自由と呼ぶ。この倫理的自由の実現は実際問題として不可能であることを、真剣に生きる者は悟らざるを得ない。例えば、パウロはロマ書において「善をなそうという意志はあるが、それを実行できない」(7:18)と嘆いている。ここからキリスト教の原罪意識は出発するのである。

誰かに褒められるようなことをすれば一つの善行になるという一般通念は誤りで、それは褒められたいという不純な動機の偽善でしかない、という現実をカントは徹底的に暴いた。「人間には倫理的自由を実現できる自由意志がある」と言うエラスムスに反発したルターも「人間は悪しかできず、悪魔に支配された奴隷意志しかない」という『奴隷意志論』を書いた。こうして人間は偶像に支配された奴隷でしかないことを明確に理解するところにC類型の真髄がある。これに対して日本の保守論客は「西欧精神は性悪説であるが、日本精神は性善説だから日本人の心は非常に美しい」と本来の日本の心を称揚する。

この矛盾をどのように止揚統一すべきか冒頭の図を見ながら考えてみよう。性悪説は悪の現実を率直に認める意味で正しく、性善説は善の理想を真摯に求める意味で正しい。しかしそれらが悪の絶対化と善の絶対化という偶像崇拝になってしまえば、C類型は「悪の世界では悪に徹すべきだ」と考える冷酷な欧米の政治家や資本家を生み、B類型は人間を無条件に信頼して簡単に悪人に騙されるようなお人好しを生んでしまう。ルターは、人間は悪魔の奴隷のままで良いなどと言っているのではない。その悪を神の恩寵で乗り越えるべしと言ったのだ。ここで、二段階で働く神の恩寵について理解しなければならない。

ルターが「恩寵のみ」と言ったのは、全ての人間は罪人であるが神は全てを知った上で我々を無条件で許しておられるという意味で、これを神の先行的恩寵と呼ぶ。我々はそれに気付くだけで良いという意味で「信仰のみ」とルターは言った。これを「信じれば救われる」と曲解する御利益信仰はカトリックの功労主義と同次元の誤りだが、この話は長くなるので今回は省略する。許されたからといって悪の現実は何も変わっていない。許しは救いの出発点であって、無限の神の愛に目覚め善の理想を実現する聖化の道を歩み出すべきであるのに、これさえも不可能として、プロテスタントは聖化を語らない傾向がある。

それは聖化を語ること自体が傲慢な自力救済論とみなされ、ルターの「恩寵のみ」と矛盾するように思われてしまうからである。しかし恩寵には、罪人を一方的に許す先行的恩寵と聖化の努力を助ける後続的恩寵の二段階が存在する。前回述べたように、我々を成長させるために辛い試練を与えながら「どうか勝利して欲しい」と願う父なる神の愛を理解して頑張る時、無限の霊的力が沸き起こり我知らず試練に勝利してしまう。この霊的力を神の後続的恩寵と呼ぶ。これこそが他力信仰の真の意味であり、自分は何もしない他力本願とは全く次元が異なる。全ては神の心を理解できるか否かに懸かっているのだ。

こうして、C類型の性悪説とB類型の性善説を止揚統一するための力は、正義の神が恐ろしい試練を与えるというC類型の理屈と、私と共に苦しみつつ勝利を願う父の厳愛に気付けるB類型の人情の和解として得られる。私がどんなに苦しんでも神は直接的に奇跡を起こして私を助けることはできない(その理由は最後に語る)。その父の心の涙を想い、私自身が限界を突破するしかないと決意した時、魂の最奥部から働く神の後続的恩寵が心と体を一つにし、体は善を希求する心に従うことを自らの喜びとしてリミッター解除して働くようになる。これが即ちティリッヒが神律と呼ぶ真の自律である。

真の自律とは神と一つになった心に体が完全に従う状態であって、この時、またこの時にのみ真の倫理的自由が実現される。我々の人生は常にこのような限界突破の闘いの中にあるが、もちろん平安な癒しの時間もある。ただ平安の時においても、神が今自分に何を願っておられるのかを霊的に察知するためのアンテナは張り巡らせている、というのが真の有神論者の生きる道である。このような自律的個人が真に連帯して自律的な共同体の和を達成する時、それが真の平等に他ならないことを次回に語り、その自由と平等が人類の喜びであると同時に神の喜びなのだ、ということを最後に語っていきたい。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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