自律と連帯こそ我々の目標

ごぼうの党の話題で話が中断したのを機会に少し立ち止まろう。このブログで私が何を語ろうとしているのか具体的に語らず先を急ぎ過ぎていたので、その話をしておきたい。私は各人の生きる目的も各国家の存在目的も全く同じ「自律と連帯」であると考える。しかるに恐らく誰も真の自律を達成できず、従って他者の自律の価値も理解できないために真の連帯が不可能になっている(真の自律とはティリッヒの謂う神律の意味であるが、この詳細については後述する)。国家においても真に自律した国家が一つも存在せず、従って他国の自律も尊重できず真の連帯ができない。この私の問題意識は参政党と全く同じだと信じるからこそ、参政党の応援ブログとして本ブログはスタートしたのである。

参政党員なら分かる通り、現在の緊迫した世界情勢の根底にあるのはグローバリズムとナショナリズムの対立である。これをいかに解決するかを示せなければ真の世界平和は永遠に訪れない。しかもこれは、政治的・経済的対策だけで解決できる問題ではない。グローバリストは自分たちが世界を一つにすることは無条件に正しく、そのためには何をしても許されると考え、結局は帝国主義と変わらぬ陰謀や戦争のような悪の手段さえ用いることを厭わない。ナショナリストは、そのような力による統一に命懸けで抵抗し「自国のことは自国で決めさせてくれ」という当たり前の主張をしているだけなのである。しかるにマスコミはこれを「極右」と呼び、排外的国家主義と誤認させるネガキャンを行っている。

今日、各国が鎖国して閉鎖的に生きることは不可能な世界になってしまった以上、各国のナショナリストは、互いの自律を認めた上で共存共栄の道を模索し「世界は一つ」というグローバリストの理想を陰謀や力によらず実現して見せなければならない。それによって初めてグローバリズムの誤りを正し「ナショナリズムの美徳」を示すことができる。ここで「ナショナリズムの連帯」という参政党の目標を如何に達成するのかという哲学が必要となる。そのためにこそ私の謂う「健全な宗教性」が必要であり、それを次回以降に説明する「真の有神論」として理解できなければ真の解決はないと私は主張するであろう。

前々回まで、そのための準備として、私は進化論批判を行い、創造論と進化論の和解の為には真の神観を確立しなければならない、と示す努力を重ねてきた。西欧的な正義(=悪への復讐)の神は幻想でしかない偽りの神だが、日本人が縄文時代以来の素朴な心で理解する愛の神は実在する真の神であり、現実に宇宙と生命の進化を導き今この時も我々を導く「我と共に在る神」である。この神の心を理解して初めて、各国の自律と連帯というナショナリズムの理想は実現可能になる。これが理解されなければ世界は滅びるしかない。しかし神は実在するのだから、正義は必ず勝つのだ。これが私の究極的信念である。

いきなり神の話をしても日本人には全く理解されないかもしれない。それには二つの理由がある。日本人は決して無神論者ではなく無意識において日常的に神を感じながら生きているのに、それが余りにも自然な感覚であるため、殊更に神を言挙げする習慣がない。これが第一の理由である。それゆえ敢えて神に言及すれば、神学論争を常態とする西欧的キリスト教と誤解され、反発されてしまう。これが第二の理由である。キリスト教の神は日本精神には全く適合せず、日本人は決して受け入れない。それは日本のキリスト教人口がいつまでも1%程度に留まり決して増えないという事実が明らかに示している。

しかし、だからこそ、日本人だけが西欧的な神観の誤りを正し、日本人だけが理解できる真の神観を世界に提示するという使命を果たせるはずである。創造論と進化論の絶望的対立が続くアメリカ合衆国では、両陣営が互いに相手を絶滅させる以外に解決の道は無いと思い定めている。ゆえに、彼ら自身が和解の道を見出す日は永遠に来ない。このように十字軍以来全く変わらぬ不寛容こそ西欧精神の絶望的な誤りである。それは西欧的神観の根源的誤謬に由来するので、この神観の革命的転換こそ真の解決の鍵だということに気付かねばならない。神が居るか居ないかではなく「正しい神観とは何か」が問題なのだ。

「神など居るわけがない」と思う人はキリスト教の神に反発しているだけであり、日本人なら例えば「御先祖様の導き」のように神の導きを感じる心は持っているはずなので、本ブログで提出される真の神観には必ず共感できると信ずる。その神観はもう何度も繰り返しているが「偶然を通じて世界と我々に情報を与え説得を続ける神」である。人間には、偶然の出来事の中に神意を見ようとする本性がある。おみくじ等の占いという行為はその本性によるものである。偶然の事象には必ず意味がある。そんなものは主観的幻想だと思われるかもしれないが、既に説明したように、宇宙と生命の進化も明らかに意味のある偶然であり、偶然によって与えられたDNA情報により我々は実際に進化できた。

情報は確かに主観的にのみ理解される存在だが、それは確かに実在するのだ。この「情報」という概念によって初めて、神が世界にいかにして関われるかというカントの生涯掛けて解けなかった問いが解決できる。カントは『純粋理性批判』において科学的理性が神を語ろうとすれば必ず矛盾に陥るので、科学は考察の対象を現象界に限定すべきで神を語ってはならないと説いた。彼は神を否定したのではない。理性で神を語れるという理性主義を否定したのだ。その代わり究極の善を目指す道徳律を語って間接的に神を示そうと『実践理性批判』を書いたが、善は「実践理性」の問題ではなく実践そのものを通じて直接的に神に出会うことだと悟れず、彼も結局、実践さえ理性で語る理性主義の罠にはまった。

しかしとにかく科学的理性では神を語れないと悟り、科学の世界(現象界)と神の世界(英知界)とを分立したところまでは正しいプラトン主義である。すると最後に残る問題は、認識論的に分立したとはいえ存在論的に神と現象界(科学で知り得る世界)が無関係であるはずはないということである。科学的理性は全てを因果律で説明しなければならないが、主観的な判断力はこの世界の美と生命体の合目的性が存在すると判断せざるを得ない。こうして彼は三批判書最後の『判断力批判』において、この世界が神に創造されたと言える(あくまでも主観的な)根拠を指し示したが、もちろんこれは科学的証明ではない。

カントは彼の近代科学への絶対的信頼と神への絶対的信仰を何とか両立させたいと願ったのだが、それを実際に科学と両立可能な理論として述べることは、彼の時代の科学的知見では到底叶わぬ夢であった。しかし今や我々は「情報」を科学的実在として理解できる。19世紀まで存在さえ気付かれなかった情報の実在性を、現代情報社会では子供でも当たり前のように理解している。そしてもう一つのキーコンセプトが「偶然」である。科学は全てを必然的原因で説明しなければならないし実際にできるという決定論パラダイムが19世紀には絶対的に信じられたが、その信念は20世紀に根底から崩れた。

科学の世界は決定論的な因果連関で構築されるように見えるが、その因果連関がどこまでも続くことは無く、量子、カオス、そして宇宙と生命の進化の現象において「偶然」にぶち当たる。そしてここが科学の世界の限界点であることについては前々回に語った。その科学の限界点こそ、神が「何もしていない振り」をしながら世界に介入できる、神と科学の唯一の接点なのである。こうして、カントの願った神と世界の橋渡しは「神が偶然を介して世界に情報を与える」という単純明快な概念で達成されることが分かる。カントの見た生命体の合目的性は、神が与えたDNA情報の見事な合目的性に他ならない。

しかし、科学自身が世界の非決定性を証明しているにも関わらず、人々の常識的世界観はいまだに決定論のままである。次回はそれが人々の根本的怠惰に根差す病であることを語り、決定論という絶対的誤謬を否定すれば創造論と進化論の和解が成立すること、そしてこの方法論をさらに深く理解すれば全ての対立が和解可能であるし、全人類の連帯も達成可能であるという未来の展望について徐々に語っていきたい。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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