世界の合目的性の起源とは

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現代の宇宙論と進化論の最大の疑問は「なぜ宇宙と生命はこれほど合目的的なのか?全てが余りにもうまく出来過ぎているのではないか?」という「合目的性の起源問題」である。宇宙論においては、約20個の物理定数が余りにも見事に微調整されており、それぞれの調整が1~数%でも狂えば我々は存在できなかったという「物理定数の微調整問題」が語られる(詳細は多く出ている良書を参照して頂きたい)。無神論者がこれを神抜きで何とか説明するために考え出した屁理屈が「人間原理」と呼ばれるインチキ形而上学である。

人間原理は深遠な形而上学を装って語られるが、要するに「宇宙は無限個生まれたのだから、そのうちの一つくらいは奇跡的に見える宇宙があっても驚くことはない」という、誰でも言える子供騙しで、特に「無限」という言葉が欺瞞的である。実際に存在可能な宇宙の数は無限ではない。そもそも生まれた宇宙がインフレーションを起こすためには限られた初期条件をクリアする必要がある。だから「無限個の宇宙」という言葉を「存在条件をクリアした、存在可能な全ての宇宙」と正しく言い直せば「この宇宙は全ての存在可能な宇宙のうちの一つだったから存在した」ということになり「この宇宙は存在可能だったから存在した」という無意味なトートロジー(同語反復)でしかないことが分かる。

そもそもこれほどの宇宙が存在可能だったこと自体を奇跡と思える感性が彼らにはない。自然淘汰も同様に、これほどの生命システムの設計自体を奇跡と思える感性を持たない無神論者が合目的性の起源を神抜きで説明するために発明したインチキ形而上学である。それは「有利な突然変異が進化の原因だ」と主張するが、突然変異が本当に有利だったのかを判定する手段は「実際に進化したから有利だったのだ」という結果論しかないのだから、これは循環論法に過ぎない。こんな誤謬論理を深遠な真理と見せ掛けて人々を洗脳するダーウィニズムは、まさに現代の全世界的カルトであり、科学と呼ばれる資格はない。

このように合目的性の起源問題を神抜きで語ろうとすれば必ず誤謬論理に陥るしかない。これはどう考えても、神の介入を前提とした形而上学によってしか説明できないだろう。だからといって私は、科学との整合性を無視して神の全能性を信じる創造論者ではない。科学は科学法則の因果連関によって全ての現象を説明しようとする学問であって、その因果連関を破壊するような神の介入で何でも説明してしまう創造論では科学は成り立たず、神の全能性を信じるだけのカルトになってしまう(ところで、ダーウィニズムも自然淘汰の全能性を信じるだけのカルトであり、その意味で創造論と進化論は全く同じ穴のムジナであることを次回に詳述する)。

科学を破壊する創造論の神の直接的介入では永遠に科学者に受け入れられない。これに対して私が提案するのは「偶然を介して世界に情報を与える神の間接的介入」であり、これは決して科学と矛盾しない。前回まで、生命進化の原因は自然淘汰ではなく完全な偶然である、ということを執拗に説明してきたが、宇宙進化の原因もやはり完全な偶然である。宇宙は物理法則の因果連関で必然的に出来たのではない。物理法則の数式では約20個の物理定数が天下り式に与えられる。これは上記の如く余りにも見事に微調整された制御情報として、宇宙創成のある時点で対称性の自発的破れにより偶然に与えられたのである。

科学の依拠する科学法則の因果連関は、科学自身の結論としてぶち当たった「偶然」において断ち切られる。「偶然」とは「一切の科学的原因が無い」ということであるから、科学でそれ以上語れることはもはや何も無いし、何も語ってはならない。科学が語り得ないことについて敢えて語ろうとすれば、それは上記のような誤謬論理に迷い込む結果にしかならないからである。宇宙も生命も完全なる偶然によって進化したことを科学自身が(隠蔽はしつつも)認めているのだ。ならば「偶然」を超えた原因である「合目的性の起源」は科学では語れず、全く視点を変えて神の視点から考え直す以外に方法はない。そこで先ず、神が科学と全く矛盾しない形で世界に介入する方法の具体的説明から始めよう。

冒頭の図は「対称性の自発的破れ」という偶然の事象により情報が発生するという事実の説明図である。左右対称の山の上に載っている玉は不安定であり、1/2の確率でどちらかに転がる。そこでたまたま右に転がったとすると、対称性が破れて「左ではなく右に転がった」という1ビットの情報が発生する。この時、人間が押したのであれば、その情報は明らかに人間が与えたのだが、誰も押していないとすると、一体誰が情報を与えたのか?それは「神が与えた」としか言いようがない。科学者はそれを言いたくないので「自発的破れ」と言って誤魔化す。実際、科学者としてはいかなる神も語ってはならない(その神には自然淘汰という偽りの神も含まれることに注意)ので、それしか言えないわけである。

この先は科学の次元では語れない「合目的性の起源問題」を神の視点から考えるしかない。恐らく誰も考えたことがないと思うが、全てを神の立場で考え直して初めて真理は見える。神が世界の創造者だからといって、神を世界の絶対的権力者のように考えるのはキリスト教の絶望的な誤りである。カルヴァンの考える神のように、自分の栄光を現すためだけに広大な宇宙を創り人間を奴隷のように支配して一体何が楽しいのか?このようにキリスト教徒というのは神の立場で考えるということが全くできず、奴隷のように神の前で這いつくばることしかできない人々である。しかし日本人の感性は全く違うと私は信じる。

「神は愛に決まっている」と思うのが普通の日本人である。ならば人間は神にとって奴隷ではなく愛する子供達であろう。真に子を愛する親は決して権力的に支配せず、自由の喜びを教え、完全に自律できるまで導きたいと願う。その人間の行動の自由を守るためには、神は宇宙の自律を犯すことはできない。宇宙の自律とは科学法則の自律であって、こうすればああなるという未来が完全に予測できるということである。次の瞬間の未来予測ができるからこそ我々の行動の自由は保証される。さらに自分の人生に対して責任を持とうとする人間自身の自律を尊重することも神の愛である。ならば神にできることは何か?

神は「何もしない振りをして宇宙と人間を巧妙に導く」ことができる。そのための手段が「偶然」なのである。冒頭の図の偶然の事象において、神はいかなる物理的力も行使していない。だから科学的には神は本当に何もしていないのである。だからといって「偶然には何の意味も無い」のか?神は科学的に介入するのではなく、我々の霊性に語り掛けているのだ。これは我々も日常的に感じているはずだろう。「偶然には何の意味も無い」と思う者は、自分の心に語り掛ける神の声に永遠に気付かず迷走の人生を送るしかない。しかし「これは偶然に見えて偶然でない!」と気付けば、それが行くべき道の悟りとなる。

そして生命の進化を可能にした全ての突然変異も「偶然に見えて偶然でない(科学的には完全に偶然であると証明できるが、霊的には知的設計が見える)」のである。さらに言えば、突然変異だけでは進化は完了せず、それが中立進化によって種内の全個体に共有されて初めて一つの分子進化が完了する。その分子進化の集大成が遺伝子と遺伝子スイッチによる胎児発生プログラムである。この進化の全プロセスが完全に偶然であることが科学的に証明されているのであるから、自然淘汰の出る幕は一切ない。その偶然を通じて、神は確かに介入し、DNA情報という偉大なプログラムを書かれたのである。

我々は、どんなに小さなプログラムを見ても、その背後には必ずそれを書いたプログラマが存在することを察知する。ならばヒトゲノムの場合、約60億ビットに相当する膨大な情報を一体誰が書いたのか?となぜ誰も疑問に思わないのか?これはダーウィニズムというカルトに洗脳された結果であるから、もはや十九世紀の原始的心性から卒業して、生命を神の与えた情報として理解できる正しい心を持つべきである。ところで創造論はさらに古い中世的心性である。創造論と進化論に共通する誤りは決定論という原始的心性であり、この決定論こそ両者の不毛な争いの元凶である。この核心的問題に次回は踏み込む。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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