エボデボ革命の真の意義

今回は、進化発生生物学(Evolutionary Developmental Biology、略してエボデボ)がミレニアム境界前後にもたらしたエボデボ革命と呼ばれる驚異的な知見の真の意義について述べる。それが前回述べた分子進化と表現型進化の橋渡し理論の最後の鍵を握るからである。NHKスペシャル(2015年放送の『生命大躍進』)でその知見が簡単に紹介されているのでそれを題材としよう。これは、生命の進化が全て驚くべき偶然の連続で成し遂げられたという内容で、これ自体が自然淘汰説の完全否定になっているにも関わらず、番組製作者は全く気付いていないという、ダーウィニストの思考停止の見本のような番組であった。

第一集『そして目が生まれた』では、PAX6という遺伝子スイッチが紹介されている。番組製作者は全く分かっていないのだが、この遺伝子スイッチは、プラナリアでもハエでもヒトでも、目を持つ全ての動物において目を作る潜在能力を最終的に発現する働きをする。即ち、目の進化は①先ず目を作るための潜在能力が完全なシステムとして準備される、②PAX6がその能力にスイッチを入れる、③すると突然、目が出現する、という順番で起きる。ハエとヒトの目は全く異なるが「見る」という目的が同じなら同じ遺伝子スイッチが最後の起動スイッチとなる。即ち、別種の目に共通の設計思想が明らかにあるのだ。

第二集『こうして母の愛が生まれた』では、レトロウィルスからPEG10という遺伝子スイッチを偶然もらって胎盤ができたという。ところで、胎盤の漸進的進化などは不可能で、胎盤形成の潜在能力を完全に備えてから一気に発現するしかない。なぜなら、進化途上の胎盤では胎児が死んでしまうので、進化が継承されないからである。だからこれも胎盤を作るための潜在能力が完成した最終段階でPEG10を偶然に獲得して完全な胎盤が現れ、そこで卵生から胎生の生物へと一代で飛躍的に進化したのでなければならない。この間、自然淘汰は何もしていない。この自明の論理が番組制作者には全く見えないようだ。

最後に第三集『ついに知性が生まれた』では、哺乳類では脳細胞の増殖を抑えるブレーキ遺伝子が故障したため、脳がどんどん成長して知能が発達したという。さらにヒトではFOXP2が働いたために言語能力を獲得したという。これも全て遺伝子スイッチの話である。遺伝子スイッチはアクセルとして働くこともブレーキとして働くこともできる。それをまとめて「制御する」というのだが、ブレーキをやめるのも一つの制御であって「故障」などと言うのは呆れるほどのシステム思考の欠如である。脳には初めから大きく成長する潜在能力があったという事実も見えていない、または意図的に無視している。

ダーウィニズム的な理屈では新たに脳を成長させる遺伝子を獲得したから大きくなったはずなのに、現実は全く逆の話(もともと成長させる潜在能力を持っていたのに、使わなかっただけ)だったわけである。そして、ヒトの進化において、その能力は最大限に発揮されるようになった。つまり、サルでは誕生後すぐに脳を成長させるスイッチが切られてしまうのに対して、ヒトの場合は生後数年間までその成長能力を維持するようになったために大きな脳を獲得した。で、ここからまた「大きな脳を獲得すれば自然に知性が生まれる」などと考えるのは経験論の誤りで、知性は先天的に与えられたとしか考えられない。

知性という言葉は非常に多義的だが、言語能力の意味に限れば、8月14日の記事で説明した悟性能力に相当する。これも先天的能力で、FOXP2が生み出したわけではない。FOXP2は単に発話を可能にする大脳ブローカ野の機能をオンにするだけであるから、FOXP2が働けば自然に言語能力が生まれるなどという粗雑な思考は、スピーカを発明したら自動的に音楽が流れたと言っているのと同じである。これも経験論の誤りで、その流れた音楽の音源は一体どこから来たのか?という問題が全く無視されている。発話能力の前に先ず言語能力が必要だという順序を逆転する本末転倒の誤りは明らかだろう。

第二集でも同様の本末転倒が見られた。胎盤の進化が余りにも明らかな自然淘汰の否定であることにも気付かぬまま、唯物論的な「ここ(胎盤と母乳)から母の愛が生まれた」というタイトルが示す通りの低次元な感動を煽る。これも本当に冗談はやめて欲しいというレベルの本末転倒である。子を産んで母乳を与えたから母の愛が生まれたのか?先ず必要な愛を備えてから子供を産む(ということもできない親失格の人間の基準で見るのではなく、生命の本来の姿を見れば、哺乳類はもちろん、命懸けで抱卵する鳥や恐竜にさえ親の愛は確かに観察されるだろう)という当たり前の順序でなぜ考えられないのか?

このように、飛躍的進化を可能にする様々な遺伝子スイッチの存在を明らかにしたことがエボデボ革命の功績であるが、それ以上に重要なエボデボ革命の発見は次のことである。

複雑な構造をもつ大型動物の体を構築するために必要だった遺伝子の全てはカンブリア紀の大爆発でそれらが出現するよりもはるか以前にすでに用意されていた。

S・B・キャロル『シマウマの縞 蝶の模様』光文社、p.177

ダーウィニズム的常識では、遺伝子は長い年月を掛けた自然淘汰によって必要に応じて徐々に獲得されたのでなければならない。しかるに、ヒトとマウスを比べても、その遺伝子の数は2万数千個で、対応する遺伝子の並び方もほぼ同じである。だから進化とは遺伝子の数を増やしていくことではなく、カンブリア大爆発以前に全て準備されていた遺伝子の使い方を変えることでしかなかった。遺伝子の使い方を変えるというのは、つまり遺伝子スイッチの働きを変えることで、これを私は「ソフトウェア進化」と呼びたい。

一方、全生物に共通な遺伝子は、先カンブリア時代に繁栄していた単細胞生物が、やがて多細胞生物を生み出すという明確な目的のためにせっせと作り出してくれたのであって、例えば多細胞動物の細胞を接着させるために必要なPTK遺伝子は既に9億年前に立襟鞭毛虫という単細胞動物が作り出していた。このような遺伝子は生物システムを作るためのハードウェアに相当するものであるから、この先カンブリア時代の進化を私は「ハードウェア進化」と呼ぶ。

このハードウェア進化とソフトウェア進化の二段階はあくまでも潜在能力を準備するための潜在的進化であって、最後にそれを生物種毎に現実化する現実的進化が起きて初めて、各生物種の進化が起きたということになる。それは遺伝子スイッチによって新しい種が飛躍的に出現する完成段階である。この完成段階を加えた三段階で各生物種の進化が起きると考えている私の「三段階進化論」について、詳しい説明は次回に語ることにしよう。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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