分子進化と表現型進化の橋渡し

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前回紹介した木村資生博士は、本来、ダーウィニズムの正しさを数学的に証明したいと願う強い想いから集団遺伝学を徹底的に研究したのである。その真摯な思索の果てに、これしか有り得ないと自信を持って完成した中立進化説は、彼が絶対的に信仰していた自然淘汰説を完全に否定するものであった。これは旧パラダイムに最も忠実に思索する者が、それを破壊する新パラダイムの創始者となるという最良の例である(科学史に良く見られる「旧パラダイムに疑問を持って発想を変えた」などというのは、初めから答を知っている立場からの後付けの論理であり、突破口は旧パラダイムで考え尽くした果てにあるのだ)。

その新パラダイムの創始者に訪れる「理性と信仰が矛盾する」という葛藤に終生悩まされ、結局「内的な分子進化は自然淘汰に依らない中立進化だが外的な表現型進化は自然淘汰に依るはずだ」という折衷案しか思い付かなかった彼は、次のように語り、分子進化と表現型進化を橋渡しする理論の構築を後進に託して、一九九四年に世を去った。

今後に残された大きな問題の一つは、表現型レベルの進化と分子レベルの進化との間にどうしたら橋渡しができるかということである。この方面でも、将来、日本の若い研究者によって世界に誇ることができるような業績が上げられることを望みたい。

『生物進化を考える』岩波新書、p.58

で、その「分子進化と表現型進化を橋渡しする理論」を具体的に構築できたと堂々と胸を張って言える者が居るのか?「橋渡し」の具体的メカニズムなど想像もできず「ほとんどは中立進化だとしても、ごくまれに自然淘汰がある」(これは意味不明だが、好意的に解釈しても後述する「自然淘汰の功績泥棒」でしかない)などの負け惜しみしか語れないのが現実だろう。結局「分子進化は中立進化で表現型進化は自然淘汰だから矛盾しない」という木村の根拠のない(何を言っているのか誰も分からない)信念だけが独り歩きして後進の者たちの中で定説として信じられているだけ、というのが情けない実情である。

私はその橋渡し理論を、8月1日の記事「AI信仰を支えた進化信仰」で既に示している。そこで示したBMP4やCaMのように、その発現量を変えるだけで表現型を大きく変える働きをする調節物質(の発現を調節するDNA領域)が、メディアでも良く話題となる「遺伝子スイッチ」と呼ばれるものの正体である。当該記事で述べた通り「最後の突然変異」が調節物質の発現量を変えると大きな変化が起きる。上述の負け惜しみを好意的に見ても、この変化を自然淘汰の功績と誤認しただけの話だから、それは偶然の中立進化が長い年月を掛けて潜在能力を蓄積した功績を丸ごと収奪する功績泥棒なのである。

橋渡し理論の詳細について、本記事の冒頭の図を見ながらもう一度考えてみよう。先ず、従来の進化のイメージには建前と本音があることを反省しなければならない。図に示した①建前としての自然淘汰説というのは、有利な微小突然変異が徐々に累積して漸進的に進化するという進化学者の理屈である。しかしながら、人々の本音では②大きな突然変異が起きて大きく進化すると考えていることを誰も否定できないだろう。具体的な例を言えば『猿の惑星』で猿が薬を摂取した瞬間に知性が芽生えたとか『X-MEN』でも突然変異で瞬間的に超能力を身に付けたとかの荒唐無稽な話に、人々は全く違和感を持たない。

人々の本音は確かに荒唐無稽なので、進化論は科学的理論だと装うためにのみ、自然淘汰説が持ち出されて「進化の正しい説明はこちらです」と言い訳される。しかしその「正しい説明」なるものが、中立進化説によって完全に否定されてしまったのである。そして実際の進化は、まさに人々が本音で考えている通りの飛躍的進化なのである。人々が飛躍的進化に違和感を持たない理由は実際にそのような現象が日常的に見られるからで、それは例えば醜い芋虫が蛹となり全く別の生物のような美しい蝶になる変態という現象である。ここに、全く同じDNAを用いて全く異なる姿を作れるという明らかな事実がある。

これこそが遺伝子スイッチの見事な働きであって、一個体における変態が可能であるなら、原人の親が遺伝子スイッチを切り替えて人類(ホモ・サピエンス)の始祖を生み、一代で交雑不可能な別種へと進化し、自然に集団から疎外されて別集団になるという飛躍的な人類誕生のシナリオも可能であることが分かる(このシナリオについては後述する)。ここで、このように見事な(原人の発生・生存のための旧システムから人類の発生・生存のための新システムへの)切り替えが可能となるためには、原人のDNAの中に、旧システムと新システムが両方構築されていなければならない。これはシステム設計者なら誰でも分かるはずだ。

新システムは原人でいる間は使われないので自然淘汰で構築できるわけはなく、誰にも気付かれない潜在能力として進化しなければならない。その見えない進化を可能にするのが中立進化なのである。そして最後に、新システムを起動する遺伝子スイッチの「最後の突然変異」により、人類が一代で誕生するという飛躍的進化が起きる。これがX-MEN誕生のような「大きな突然変異」と誤認され、さらに「自然淘汰」とも誤認されてしまうが、この全ての過程において自然淘汰は何の働きもしていないことを良く理解して頂きたい。全ては長年月に亘る偶然の功績なのに、それを剽窃する罪を犯してはならない。

そういうわけで、木村の希求した「分子進化と表現型進化の橋渡し理論」のうち、分子進化は「長年月に亘り表現型には全く現れない潜在能力を蓄積する中立進化」であり、表現型進化は「最後の遺伝子スイッチの突然変異により一気に潜在能力が発動される飛躍的進化」と考えれば簡単に解決する話であり、どちらも百%偶然の功績であるから自然淘汰は完全に死んだということが分かるであろう。前段の中立進化については完全に木村の功績なのだが、後段の遺伝子スイッチに関しては、ミレニアム境界の頃「エボデボ革命」と呼ばれた夥しい革命的知見によって詳細が分かってきた。次回はこの後段の話をする。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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