(4)真の喜びとは何か?

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ここまで、自由は自律の喜びで平等は連帯の喜びである、ということを述べて来た。その喜びを知ることこそ、我々の人生の目的である。それは我々自身が達成すべきことであり、上から天下りで与えることは不可能であるから「神が居るなら、なぜ私は不幸なのか?」と問うのは人間の側の責任放棄であり神への責任転嫁である。この問いに対して、では神は初めから世界を天国として創れば良かったのか?と問い返そう。様々な映画が描写する理想郷において外見的には何不自由なく暮らす人々が、本当に幸福だとは全く思えない。全てが上から与えられてしまう「天国」のどこに真の喜びがあるというのか?

そもそも自由も平等も幸福も与えられるものとしか考えない一般通念が根本的な誤りで、その本質は人間の根本的怠惰である。天国は自分で創るもので、その出発点は魂の最奥部で真の神に出会うことである。そのためには理性による理論的理解と霊性による実践的感動が必要不可欠だが、それが面倒で難し過ぎるため、もっと分かり易く手軽に頼れる偶像を求め、自分で適当に偶像を発明してでも何らかの偶像に依存して生きる偶像崇拝に陥る。そして自分自身の自律を放棄する責任転嫁と、それゆえに正しい関係性が分からない本末転倒に陥り、憎しみと争いの絶えない現在の悪の世界を作ってしまった。

このような悪の世界は神が創ったのではなく我々自身が作って来たのだ。こう言っても、まだ「人間が悪の世界を作ったことは認めるが、悪を行えるような人間を創ったのは神だから、やはり神の責任だ」と言い返し何とか神に責任転嫁しようとする者が居る。ならば我々は絶対に悪を行えず善しかできないロボットとして創られた方が良かったのか?アシモフはロボットが従うべき「人間に危害を加えてはならない」等の三原則を考えて『アイ・ロボット』を書いたが、自分が善しかできないようにプログラムされたロボットだとしたら、そこには善の喜びなど存在せず、生きている意味も分からないだろう。

それは、怪我や病気というものが存在しないのであれば「健康の喜び」も「健康」という概念自体も存在しないのと同じである。だから我々は体も心も健康に保つ責任があり、そこに人生の喜びがある。そのために、我々はロボットではなく自由な人間でなければならない。自由の責任を果たせなければ悪に陥る危険があるが、だからこそ、自分自身の自由な責任を引き受けて悪と闘い真の善を求めて生きるという目標が持てるし、命懸けで闘う人間だけが真に生きる喜びを知ることができる。この観点で考えてみれば、上記のアシモフのロボットのような人間を創ることを神は決して望まないだろう。

神の願いとは、神の喜びとは、一体何か?この観点が西欧精神には決定的に欠けている。例えば、カルヴァンは「神は御自身の栄光を現すために世界を創造された」と言う。このように神を賛美することが最も美しい信仰だと彼自身は信じていたのだろうが、日本人から見れば、自己満足のためだけに無数の人間と広大無辺の宇宙を創る神とは『星の王子様』の第二の星で全ての人が自分を賛美すると思っているうぬぼれ男と同じだろうとしか思えない。このようにC類型の神とは自分のことしか考えていない神であり、だから人間の方も自分だけが何とか天国に入れてもらおうと神にへつらうだけの奴隷根性になる。

神の喜びは人間が喜んでくれることであり、逆に人間の喜びは神を喜ばせることである。C類型の欧米人には全く分からないだろうが、参政党で立候補した河西泉緒さんが「神様を喜ばせたい」と言ったように日本人は確かにそれを直観的に理解している。しかし理屈を嫌うために理論化ができない。日本人は「人としての心」を明確な理論として言語化すべきである。神が我々を創造したのなら神の喜びと人間の喜びは全く同じであるはずだ。これを言うために、先ず人間の喜びとは真の自律と真の連帯であるということを語った。そしてそれがそのまま神の喜びであるということを、最後に語らねばならない。

神は人間を創造しなければならなかった。それは神が人間なしには得られない喜びの実現を願ったからである。アリストテレス哲学では、神は全てを所有しているので、足りないものなどは無いと考える。一体どうしたら、ここまで浅薄な思考ができるのであろうか?全能の神には、全能だからこそ経験できない一つのことがあるのだ。それは無力な赤ん坊として生まれて、一歩一歩成長することで自分も喜び、親にも喜んでもらえるという人間にしかできない体験である。親は子の喜びを見て喜び、子も親が喜んでくれるのが嬉しい。子を持った時に初めて、人は自分が何のために生まれて来たのかを理解する。

この世で最大の喜びとは何か?それは「親の果たせなかった夢を子が果たすこと」である。これに異論がある人がいるのか?異論があるとしたら「親の夢を強制されるのは迷惑だ」ということだろう。だから神は決して我々に夢を強制せず、自由を尊重するのだ。では、子の方から親の夢に共感し、親の夢を果たすことを自分の夢として追い掛けるようになったとしたらどうか?そのような子の姿を見るだけで、たとえ夢が実現しなくても、親は涙が止まらないであろう。ましてやその夢を実現してしまったとしたらどうであろうか?日本にはその実例が多くあるが、最も有名なのは若貴兄弟の伝説だろう。

兄弟の父である初代貴ノ花は人気絶頂の名大関であったが、横綱にはなれなかった。弟はその父を尊敬し「横綱は家族の夢」と言って父の弟子となった。野球をやりたかった兄も弟に同意して共に弟子となり、その結果、驚くべきことに兄弟が揃って横綱になった時、それこそ日本中が熱狂した。誰よりも嬉しかったのはもちろん父だろうが、その父の兄であり師匠でもある初代若乃花にとっても「子によって乗り越えられる」という自分が果たせなかった夢を弟が実現したのだ。それゆえ「土俵の鬼」と言われた人が感動の涙を流し、また日本中の人々も、この花田家のドラマを見て感動し泣いたのである。

神が見たかったのは、こういうことではないのか?神は人類を神の子として創造された。我々一人一人は無限の神の分け御霊である。無限分の一ではあるが「世界に一つだけの花」として神に代わって唯一無二の個性を実現し、全ての人々と連帯する喜びを知るために、我々は生まれた。そうして我々が喜ぶ姿を見ることによって神も喜び、神を喜ばせることができたと我々が思えた時、それがまた我々の喜びをさらに増幅するのである。人情噺が大好きな日本人には、こういう親子の絆は「人としての心」で当然のように分かる。神はその夢を決して強制せず、人間自身が自由の喜びにおいて実現することを願う。

だから「自分がこれほど苦しんでいるのに神はなぜ助けてくれないのか」などと問うことは神の心を理解しない根本的怠惰である。実際、神は何もしてくれないのではない。神には父性と母性があり、父としては厳しく試練を与えるが、母としては誰も気付かぬ形で援助しているのだ。これに気付ける者は、あの時あの事件が起きたからこそ今があるという神の導きを明確に理解する。しかし、その援助はあくまでも偶然を装って与えられ、直接的な神の奇跡的介入のようなことは決して起きない。それは、そんなことをしたら全て神の力ということになり、人間が自分で成し遂げたことにならないからである。

それゆえ神は人間自身の喜びのため、全ての歴史を人間の自由な決断に委ねるのである。しかし現実の歴史においては悪人の力がどうしても巨悪となり支配的になりがちである。現代では、世界に紛争の種を撒き散らすことによって自分が巨利をむさぼることしか考えないグローバリストという巨悪が世界を支配しようとしている。しかもそのグローバリズムを素晴らしい理想と勘違いして、SDGsのバッジを付ければ意識が高いかのように思い込み、彼らの陰謀を許してしまっている全人類の責任も同じように重い。地球温暖化どころか、グローバリズムの巨大な害毒によって、世界は滅びようとしているのだ。

しかし、私は神を信じているので、この状況にも必ず意味があると信じる。神には、悪人の悪知恵を利用して世界を導くという戦略がある。どれほど頭が良くても、悪は道理を外れているのだから、悪人の考えることはどこかに穴がある。その結果、悪の陰謀は必ず自分自身の墓穴を掘り、それが逆に善の方向へ大きく歴史を動かすのである。悪の危機は人々が善を求める心を呼び覚まし、各国のナショナリズムと各人の自律を促す。日本では、真のナショナリズムは参政党の中にある。では真の自律はどうか?参政党の支持者達こそ、真の神に出会い真の自律と真のナショナリズムを確立する責任があるのだ。

そのやむにやまれぬ想いから私はこのブログを書いた。まだまだ言い足りないことは山ほどあるが、ここで一つの区切りを付けて最終回としよう。2023年も日本が無事に存在し、むしろ世界の滅亡を防ぐ役割を果たせることを祈りつつ。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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