(3)真の平等とは何か?

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前回、真の自由の実現は実質的に不可能であるが、神の心を悟れば可能となると語った。真の自由が実現できない状態では、真の平等も実現できない。良く「自由と平等は論理的に矛盾するから両方を同時に実現することは不可能だ」と言われるが、矛盾するのは自由と平等を権利としか考えないからである。真の意味で考えれば、自由と平等は同じことである。真に自由な者とは真の自分を発見し実現した者であるから、自分を他者と比較して不平等感を持つなどということは有り得ない。一人一人は全く異なる個性で社会の役に立てるのであるから、それぞれの個性を認め合い協力し合って全体の繁栄を目指せば良い。

だから、自由も平等も自分の心の問題であり、ひいては自分と神との関係の問題である。自由と平等を実現できないのは、この真理を悟れず自分の側の責任を全く放棄しているからである。自由も平等も与えてもらう権利としか考えない一般通念は根本的に誤っている。もしも全ての権利を与えられて何をするのも自由だと言われたら、初めは天国と思っても、それで心が満たされることは有り得ない。それは大富豪やスーパースターが決して幸福ではなく、むしろ麻薬に溺れたりする悲惨な末路を見れば良く分かる。天命を悟らぬ人間に与えられてしまった自由は、サルトルが言うように刑罰でしかないのだ。

さらに、権利として与えられる平等とは一体何であろうか?全員の不平等感の解消など出来るわけがなく、一番簡単なのは全員を平等に不幸にすることである。これが共産主義社会で起きたことであって、これは「結果の平等」が不可能であることを示している。逆に「機会の平等」の立場を取れば、出発は平等でも後は自由競争で皆が差別化を目指すことになるので、ここから「自由と平等は両立しない」という一般通念の結論が出てくる。だからこんなものは真の平等ではない。制度的に最低限の機会の平等と結果の平等は保障される必要があるという程度の必要条件であり、真の平等の十分条件ではない。

では真の平等の十分条件とは何か?それは最初に示唆したように①全員の一体化と②個性の役割分担、そして③喜びの共有である。①各人が大義(共通の目的)において心を一つにし②全体は各人の個性を適材適所で生かす共生社会となり③その結果として全体が繁栄すればそれが各人の繁栄ともなり、全員の喜びは共有すればするほど増殖する。これは要するに、日本人の得意な和の精神である。実際、日本は世界でただ一つの成功した共産主義社会であると小室直樹は評した。つまり、共産主義の目指した真の平等は日本においてのみ近似的に実現している。この平等は心の問題であるから内的平等と呼ぼう。

マルクスも実は平等が心の問題だということに気付いていて、労働者が労働の喜びに目覚めれば自発的に働いて生産性が上がり、中国共産党のスローガンで言えば「共同富裕」が実現すると夢想したのである。ところが、彼の考えた労働の喜びとは何とロビンソン・クルーソーの無人島における労働の喜びであった。自分の生存のためだけに生きることを無上の喜びと感じる心性がまさに典型的なC類型の個人主義であって、これは日本人の和の精神とは正反対のものである。マルクスの労働観の原型はピューリタンの「資本主義のエートス」であり、これも自分だけの救いの確証を求める個人主義である。

このように骨の髄まで個人主義であるC類型の人々にとって、他者は基本的に敵であり、このような人々が自発的に一体化することは有り得ない。一体化は平等の第一条件であり、C類型の人々にもその必要性は分かる。しかし自発的一体化は望めないために、絶対的正義を押し付ける「外なる神の力による上からの強制的統一」という全体主義あるいはカルト宗教的な発想しか出て来ない。これに対して日本的なB類型の人々は和の精神でいとも簡単に一体化してしまうのであるが、これが余りにも自然に出来てしまうので、一体化の前に先ず各人が自律的に考えた上で共通の大義で一致すべしという順序が分からない。

そこで冒頭の図を見ながらC類型とB類型の止揚統一を考えよう。C類型の長所は理性を重視して自分の頭で考えられる人が多いということだが、それゆえに自己絶対化して他者と敵対しがちだという問題がある。一方、B類型の長所は容易に一体化できるということだが、それゆえに集団を絶対化して依存し自分の頭で考えられないという問題がある。この双方の絶対化を誤謬として捨て、長所を二面的真理として和解すれば良い。C類型の人々は各自の頭で考えた後に止揚統一して大義で一致する和の精神の喜びを知るべきで、B類型の人々は一体化の前に自分の頭で考える正しい個人主義を学ぶべきである。

しかし、本来バラバラな人々が自分の頭で考えて一つの大義で一致するということがいかにして可能だろうか?それは人間である以上「人としての心」が必ずあるからであるが、それは大義を受け入れる器に過ぎない。大義そのものは一体どこから来るのか?と考えるなら、それは真の神から来る善のイデアとしか考えられない。日本人は心の中に初めから善なる想いがあると安易に考えがちだが、それは自分を神とする誤りであると既に述べた。人の心には善のイデアに共鳴できる受信機があり、一人一人が神の声に耳を傾けようと努力してその受信機にスイッチを入れた時、全員の心に同じ大義が流れ込むのだ。

参政党現象は、まさにそのようにして起きたのである。神谷さんの演説で魂が震えるのは、彼自身が命懸けで獲得した大義に我々の心が共鳴するからである。神谷さんの言葉に感動して泣いている聴衆を見て「だからカルトだ」などと批判する見物人に対しては「インチキなカルト宗教で人を感動させることなど決してできない」と言わねばならない。全てのカルト宗教は、それを信じることによって「正義の味方」の立場を獲得し他者より優越できる、病気が治る、超能力を得られる、あるいは来世で天国に行ける等々の御利益で人を釣っているだけであり、そこに魂が震えるほどの感動などあるわけがない。

このように、全ての人の心に善のイデアとして流れ込む神の愛が人々を一つに結び付ける「内なる神の愛による下からの自発的和解」により、先ず全ての共同体が一体化し、各国がそれぞれのナショナリズムで一体化し、その上で全人類が一体化した時、それが真の平等世界である。何度も言うが、真の平等は内的平等であり、あくまでも各人の心の問題である。それは外的不平等を心の問題に解消しているだけだという見物人の批判があるかもしれない。しかし、内的平等を原因として、分配の平等のような外的平等はその結果として自然に達成されるのである。それには外的な根拠もあるので述べておきたい。

グローバリストは、地球の資源が有限であるという虚偽宣伝をすることにより、自分達が供給する食料や医薬品を全世界に独占的に売りさばこうとしているが、この陰謀に乗せられてはいけない。最新の学説によれば、石油の原料となった有機物は生物の死骸などではなく、地球が生まれた時に大量に降り注いだ隕石に含まれていたのであって、膨大な水もそこから作られ、その残りが石油だという。水よりは少ないにしても、これはとても我々が掘り尽くせるような量ではない。1972年に「あと20年で石油が枯渇する」と騒いだローマクラブの予言は完全に外れ、石油はまだ幾らでもあると見られている。

これは神の創造を信じるなら当然のことであって、地球は人間のための無限の資源として創られたのである。地球温暖化などは嘘であり、むしろ寒冷化に向かうのだから、石油はどんどん燃やせば良いし、今世紀中には核融合炉が動いてエネルギーは真に無限となる。だから我々は無限の資源から無限の価値を創造できる。生産技術が未熟だった昔は確かに有限の富を奪い合うしかなかったが、現代の技術なら無限の価値を創造し分かち合える。ただしもちろん、人々が真に一体化すれば、の話である。全人類が全体の繁栄を目指して善意の経済活動を行うなら、全人類が豊かになる未来は決して夢ではないのだ。

ここまでの三回で語って来たことをまとめてみよう。(1)先ず真の神観を確立して神の心を知れば必ず天命にぶち当たる。(2)天命を悟ったら神と心を一つにして善のイデアの実現を目指す真の自由の力を得る。(3)そうして真に自律的な人々が心を一つにして連帯する時、真の平等世界が樹立される。以上の悟りの最終段階として悟るべきは、次のことである。神が我々を創造したというのであれば、なぜ初めから天国のような理想世界を創らず、これほどの悲劇に満ちた戦争の歴史を神は許容してきたのか?この、キリスト教徒も全く理解できなかった歴史の謎について、次回は語ることにしよう。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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