(1)真の神観とは何か?

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前回、真の有神論は理論と実践であると語ったが、その実践のための力となる具体的理論を今回から語る。先ず、その流れを要約しておこう。真の有神論の悟りは以下の三段階で得られる。①西欧的C類型と日本的B類型の神観の止揚統一②西欧的C類型と日本的B類型の人間観の止揚統一③以上で正しく理解された神観と人間観の止揚統一。そして②の人間観については自律と連帯の二段階があり、異なる個性がそれぞれ自律すべきこと、その上で人々が連帯して集団的な自律を達成すべきこと、この二段階が真の自由と真の平等の実現を意味する。ゆえに結局、全部で四回に分けて語ることになるであろう。

それらは以下の四つの観点で、10月16日の記事で語った弁証法を用いた止揚統一として語られる。
(1)真の神観とは何か?
(2)真の自由とは何か?
(3)真の平等とは何か?
(4)真の喜びとは何か?

というわけで今回は(1)真の神観とは何か?について冒頭の図を見ながら語ってみよう。真の神観はC類型とB類型の神観の止揚統一として得られる。C類型の西欧精神は恐ろしい父なる神を強烈に意識しているのに対し、B類型の日本精神は優しい母なる神を自然に感じている。これは親なる神の父性と母性として理解でき、本来どちらも正しいのである。しかるに実際はどちらも正しく理解されず、C類型は神の父性を脅迫する偶像と誤認し、B類型は神の母性を甘やかす偶像と誤認してしまう。これが両類型の互いに真逆の誤謬を生んできたので、それらの偶像崇拝を完全に否定しなければならない。

そのために、この両極端の神観を生んだ両文明の精神構造の違いを見てみよう。そもそも西欧精神には何事も理屈でしか考えられないという重大な欠陥(理性信仰という偶像崇拝の誤り)がある。もちろん彼らにも霊性の直観はあるのだが、それを動物的な感性や感情と区別することができず「感覚は理性を欺く」として否定したがる。例えばスタートレックのミスター・スポックがその典型で、欧米の映画には理性主義的な議論が非常に多い。一方、日本映画の典型的登場人物は寅さんで、細やかな人情の描写が基調である。この人情を動物的感情と混同して軽蔑する西欧精神の一般的傾向は明らかに異常である。

欧米人にもsoulとかheartとかの概念はあるのに理性が感情を抑圧してきた。そのため逆に “Don’t think. Feel!” などと言って理性を敵対視する理性主義への反動が現れる。このような理性と感情の敵対関係を生んでしまうところに、西欧的理性主義の問題がある。この理性主義の欠陥は、神を理屈だけで語ろうとするキリスト教神学において顕著である。スコラ神学者に「神にも感情があるはずだ」などと言えば、彼らは神の冒涜と思うだろう。感情は被造物の低級な属性であって、神にはふさわしくないと考えるからである。これはハーツホーンが「単極偏見」と呼んで批判した神学者の伝統的な誤謬論理である。

様々な属性には必ず二面性があるが、それらを優劣とか主従の関係で捉えて、優れていると思える方を神の属性とし他方を被造物の属性とする、この一面だけを絶対化する偶像崇拝を単極偏見と呼ぶ。例えば、一と多では、神は唯一であり被造物は雑多である。必然と偶然で言えば、神は必然であり被造物は偶然である。このような思考の誤りは明らかだが、単純な理性には分かり易いので多くのキリスト教神学者はこの安易な思考の罠に嵌った。特に、神の業は必然の力であり、被造物の偶然の動きには神は関知しないと考える単極偏見の誤りは致命的であり「偶然に働く神」という神観を不可能にしてしまう。

この単極偏見を批判する方法は簡単であり「神が世界を創造したのであれば、全ての二面性は神から来たのであって、神は全ての二面性を兼ね備える」と言えば良い。理性と感情の二面性も当然、神の中にあるのだ。ただし感情と言えば動物的感情も入ってしまうので、以下では理性と人情と言おう。人情とはつまり人間だけに分かる「人としての心」である。動物的感情も人情も神から来たので、どちらも神の中にあるが、今考えるべきは人情で、それが神にもあり、むしろ神の方がその本家本元であるということを強調したい。この細やかな人情を日本人のように実感できなければ、真の神の心は理解できない。

神の父性と母性で言えば、父性が主体だから神に母性などあるわけがないという単極偏見でキリスト教徒は神を父と呼んだ。ところが、日本ではむしろ家庭の主体は母である。財布も胃袋も母親に握られているのが日本の普通の家庭である。子供が生まれれば、その子が完全に母親を独占し、父親は子供たちの次に母親の愛を受ける立場に甘んじる。こうして母の愛に包まれて育った日本人は、神を優しい母のように自然に感じてしまう。それは赤ん坊が母親の存在を空気のように感じる感覚と同じである。この母性に甘え過ぎて神を「甘やかす偶像」にしてしまえば日本精神の誤謬となることは既に述べた。

一方、西欧精神の「脅迫する偶像」は父のイメージの中でのさらなる単極偏見と言える。父には確かに怖いイメージがある。しかし、それはあくまでも子供を厳しく鍛えるための父なりの愛であることを、日本的な人情で理解すべきである。しかるに西欧では母親さえ怖い体罰を与える文化がある。要するに権力的支配が専制君主と民衆の関係から波及して、親子の関係にさえ沁みついている。親でさえ権力的支配者なのだから、神も当然、最も恐ろしい権力的支配者つまり脅迫する偶像と考えられてしまう。これら両文明の偶像崇拝の絶対的誤謬を排除して初めて、両者の神観を同じ神の二面的愛として和解できる。

神の父性愛は、正義とは何かを指し示す愛である。神の心の中には、一人一人が地上で果たすべき使命のビジョンが明確にある。しかしそれはあくまでも各人が探し求めて自分で見つけなければならない。しかるに自分の使命を希求する努力もせず、破滅に向かうような人間に対しては、大きなショックを与えて目覚めさせる荒療治が必要となる。人生において生じる様々な試練は、父なる神の愛に発するショック療法である。その父の愛に気付きもせず、ただ神を恐れ「神の罰」だと捉えた末に神を恨んで自暴自棄になってしまうのであれば、もはや自分で地獄を作り出している自己憎悪の誤りとなる。

完全な人間は居ないのだから、何の試練も無ければ成長の機会も無く、むしろ不幸である。その場合、試練を受けないこと自体が、自分で自分を成長させられるかという試練だろう。「神は乗り越えられない試練は与えない!」という決めゼリフがあるが、それはつまり、その試練を乗り越えられるだけの素質があると神が認めたということである。「お前には必ずできるのだから、頑張れ」と背後で激励する父なる神の愛を知れば「死んでもこんな試練に負けません」と神の願いに応えるために命懸けで頑張れるし、実際に不思議な力が背中を押して、気が付いたら乗り越えてしまったということがあるのだ。

一方、神の母性愛は身近な自然の恵みであり人々から受ける愛でもあり、それが必要な時に与えられるということである。その母なる神の愛を自然に感じて生きるという点では日本人の神観はほとんど真の有神論に近いのであるが、ただ一点、超越神を理屈として理解することだけが欠けている。先ず超越神の実在を理屈としてC類型から学び、正義の立場から試練を与えるという点で遠く感じられてしまう父なる神の愛を人情で理解して超越神の前に一人で立ち、誰にも甘えず頑張る。こうして、母なる神の慈愛に加えて父なる神の厳愛も心から納得して実践する時、初めて真の神観が得られるのである。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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