真の有神論はAの立場

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ここまで、D類型、C類型、B類型と語って来たが、最後の神観はA類型と呼べるほどの集団が存在しないので「Aの立場」と呼んできた。それは「超越神」を「内なる神」として認識する立場であり、これこそが真の有神論である。私が「真の有神論」と銘打つのは、世の中のほとんどの有神論がインチキ有神論でしかないからである。インチキ有神論の最たるものは「あの世があるかどうか分からないが、万が一天国があったとしたら、神を信じておいた方が有利だ」という見物人的打算である。天国は入場チケットを買って席を確保しておくような場所ではない。天国は自分の心の中に自分で作るべきものなのだ。

これを明確に説いた人はイエス・キリストただ一人である。「天国を作る」とは、あの世に自分の居場所を確保することではなく、自分の心の中に神の居場所を確保することである。神はいつでも私の心に語り掛けているのに、その声を聴こうとしなければ神が私の心に住むことはできない。だから私がすべきことは神の声を聴こうとすること、それだけである。その結果、神の力が私の心に注がれ無限の力となる。これをイエスは「神の国」と呼んだ。ルカ17:21「こことかあちらとかにあるのではない。神の国はあなたがたの中にあるのだ」(ルター訳からの意訳)からもイエスの言いたいことは明らかなはずである。

しかるに、新共同訳の聖書では、その箇所が「神の国はあなたがたの間にある」と改訳されてしまった。本来この「間に」の原語entosは「中に」の方が本義であり、ルター訳は実際inwendig(中に)となっている。この改訳は明らかに「各人の心の中に神の国を作るべし」というイエスの本来のメッセージを「神の国とは信者が集まる教会のことだ」と解釈したい教会による歪曲であると断ぜざるを得ない。あるプロテスタント教会のサイトを見ると「あなたがた」と呼ばれたのはパリサイ人であり彼らの心の中に神の国などあるわけがないと差別発言をしている。こんな教会こそ、神の国であるわけがないだろう。

教会体制を死守したい者たちは、信者が「教会など要らない」と言い出すのを極度に恐れ、このような歪曲をするのだ。そもそもルターはローマ教会を批判し、信仰は神と私の直接的関係であって、教会が神と私の間に介在してはならないと主張したのである。これは明らかに教会を不要とする思想だが、ルター派という集団を形成してしまうと、二世教育の必要性からも、教会という体制を作るしかなかった。そうしてルター派正統主義神学が作られた時、真の有神論に近付いたルターの霊的悟りは失われ、偶像崇拝に堕したのである。このように真の有神論は常に一瞬の輝きで終わり、弟子たちは必ず偶像崇拝となる。

キリスト教徒は神を理屈としては超越神として正しく理解しているが、実践的には内なる神として認識することができず、教会のような外的体制を外なる神としてしまう。これが、C類型がAの立場になれない理由である。これに対し、日本人は全く正反対の誤りを犯す。日本人は、内なる神を直観的に感じて、心を清めて生きることは昔から実践できている。ところが理屈として、心で感じている神が超越神であることを理解できず、人の美しい心をそのまま内在神として無条件に信頼し「世の中は皆良い人ばかりだから」と互いの美しい心に甘え合って安心してしまい、超越神の前に一人で立つAの立場になれない。

このように、Aの立場つまり真の有神論の悟りには、理屈と実践の両面で理解しなければ到達できない。特に日本人が苦手な理屈を何とか理解して頂くために、私はこのブログを始めたのである。先ず科学的には、科学が自ら科学的決定論を否定したため「偶然を介して世界と私に情報を与える神」という、科学と矛盾しない神観を我々は持てる。この時代的恩恵により、真の有神論を理論的に語ることは既に可能となっているのだ。ただ、科学自身には神について語る資格はなく、真の神観を理解するには哲学的理論が必要なので、今はそれを語っている。しかし、理論だけで真に神を理解することはできない。

真の悟りは日本人の得意な実践的直観でのみ得られる。「本当に神が居る!」と実感することは、一つの目標に向かって「絶対に神が導く」と信じ命懸けで闘い、そうして実際に神の力が働いたとしか思えない結果を得た時に初めて可能となる。参政党を応援する我々は、初めは全く無名だった参政党が参院選直前に昇り龍のように支持を集め、見事に国政政党となった時「これは神が働いたとしか思えない」と参政党の指導者たちが述懐したことを記憶している。命懸けで生きる人間には、必ずこのような体験をする瞬間があるのだ。その時、それが本当に神の力だったと悟れば、真の有神論の悟りを得たと言える。

特に頂点を極めたアスリートは、このような体験をすることが多い。長野オリンピックで金メダルを取った選手が「亡くなった父と一緒に滑った」と感動的に述懐したことがある。客観的には確かに自分がやったのだが、主観的には到底自分の力とは思えず、御先祖様の力のようなものが背中を押してくれたというこの感覚は、誰でも共感できるはずである。この不思議な力を神の力として明確に悟ることができれば、真の有神論者として強く生き続ける力を得られる。しかし現実には、その悟りが非常に難しい。それで、頂点を極めた後は燃え尽きてしまうアスリートが多いというのも非常に残念なことである。

真の有神論の出発点は、各人が理論と実践で悟るしかないという意味で個人主義である。と同時に「世界は一つになるべし」というグローバリストの究極目標もそれ自体は正しい。しかし、その目標を達成するための手段として「力による強制」しか思い付かないところに彼らの根本的誤りがあるのだ。その力は軍事力であったり市場の支配力であったりメディアの宣伝力であったり、様々な強制力が考えられてきたが、そんなもので一つにされてしまった世界はオーウェルの『1984年』と同じディストピアにしかならない。だからこそ各国のナショナリストは命懸けでグローバリズムと闘っているのである。

今、世界各国は急速にナショナリズムに目覚め始めている。真のナショナリズムとは国家単位の自律であり、真の有神論とは個人単位の自律である。そして「自律とは心の中に神が住むことによって全ての矛盾対立を和解できる力を持つことである」という真の有神論の意味を理解した時、ナショナリズムは真の有神論の自然な延長であることが分かるはずであり、逆にそれが理解されなければ真のナショナリズムにはなれない。その場合、各国の和解は不可能となり連帯は失敗する。だからこそ私は、ナショナリズムの運動の中でも健全な宗教性を持つ人々に真の有神論を提唱し、共感して頂きたいと願っている。

「世界が一つになる」という人類の悲願は、グローバリズムやカルト宗教の「外なる神の力による上からの強制的統一」ではなく、真のナショナリズムの「内なる神の愛による下からの自発的和解」によって達成されなければならない。ここで「真のナショナリズム」と言ったのは、それが各個人の真の有神論を基盤としなければ排外的になるからである。先ず、一人一人が真の有神論者となり各人の自己実現としての自律を達成し、そのような人々が和の精神で連帯して一つの共同体を形成すること、その共同体の輪を国家から世界へと拡大していくこと、これだけが希望の道であり、カルト的統一は絶望の道である。

現在の紛争だらけの世界にそんな希望があるとは思えないかもしれないが、実のところ全ての紛争はグローバリストによって仕掛けられたものであるという事実を知れば、グローバリズムによる洗脳から全ての人々が解き放たれ、諸国民が真のナショナリズムに目覚める日は必ず来るし、それによって、世界が一つになれる日も必ず来ると私は信じている。なぜなら、私は真の神の存在と導きを信じているからである。そのための理論武装として、西欧的なC類型と日本的なB類型を止揚統一する和解が可能であり、それがAの立場である真の有神論の具体的な内容となることについて、次回からは語っていきたい。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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