日本精神に見るB類型

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今回は、西欧的なC類型のアンチテーゼと成り得るB類型の神観について語る。B類型の神観とは「内在神」を「内なる神」とする立場であり、日本精神に代表される。日本精神は基本的に神道だが仏教も大きく影響しているので、B類型のBは仏教のBと考えて頂いても良い。ところで「内在神」を「内なる神」とする立場は西欧のリベラリズムにも見られる。しかしこれはC類型の神中心主義に反発して人間中心主義の建前で対抗しているだけで、本音ではC類型の神を憎むという形で強烈に意識している。それゆえ日本の素朴な人間信仰とは全く異なり、本音の神観はC類型だから、B類型の代表とは言えない。

「内在神」と「内なる神」が混同され易いので、再度説明しよう。「内在神」は世界の中に存在する神で「内なる神」は心の中で認識する神である。この「内なる神」という神認識は真の有神論と同じで全く正しい。問題は、その神は一体どこに存在するのか?ということなのである。もともと日本古来の神道は「水と安全はタダ」という恵まれた日本の美しい大自然の背後に世界を超越した神を感じているので、その神は明らかに超越神である。しかるにその正しい理解ができず、神を感じている心そのものを神と誤認してしまえば、超越神を内在神に貶める(これを「神の内在化」と呼ぶ)偶像崇拝の誤りとなるのだ。

内なる神について、無神論者は「神は共同幻想で、それを内なる神と錯覚しているだけだ」と考える。共同幻想というのは伝説とか神話のように皆が信じている幻想は真実だと思われてしまうということであるが、それは言葉を通じて私の心に外から注入された偽りの神だから外なる神である。従って、内なる神が錯覚でしかないなら、それは確かにB類型とは呼べず、D類型である。しかし、錯覚で感じている神に感動が伴うはずはない。例えば御来光を見て純粋に感動するからこそ、日本人は自然に手を合わせてしまうのだ。外国でも真っ先に神殿等の宗教施設に行きたがるのは圧倒的に日本人観光客だと言われる。

何より、人の美しい心に触れた時、日本人は神を感じるのである。それで「人の美しい心こそ神だ」と考える人も多い。しかし、これが自分を神とする誤りであるということを、何とか日本人には分かって頂きたい。キリスト教に反発して日本人に原罪など無いと主張する保守論客も同様に誤っている。キリスト教が原罪を説くのは、全人類の心に普遍的な悪が存在すると言いたいためなのだ。この現実は誰も否定できないだろう。それを原罪という聖書的神話で語るから反発されるので、偶像崇拝という全人類に等しく観察される心理学的病理として理解すれば、その悪は確かに自分の中にもあると分かるはずである。

人間の心は、超越神を心の中に宿した場合にのみ美しく輝く。逆に超越神を見失えば限りなく堕ちて、邪悪な偶像に支配されてしまうのである。全ての人は、自分の生き方を正当化するための後付け論理として偶像を作り出す。最悪の例は、殺人の欲望を「復讐の神の命令だ」と正当化する犯罪者である。そこまで行かなくても「これが俺のポリシーだ」と偉そうに言いながら、単に止められない習慣でしかない生き方を続ける人は多い。このような人々は自由に生きているつもりで、実際には自分で作り出した偶像に逆に支配された奴隷でしかないのだ。この偶像崇拝の悪への根本的認識が神道には欠けている。

神道は、人間の「内なる善」を強調するのは良いが、自分で偶像を作り自分でその奴隷となる偶像崇拝の「内なる悪」の方は余りにも軽く見て「心の穢れ」としか表現できない。つまり、本来は美しかった心に降り積もった埃のようなものとして軽く考え、美しい心に戻るためにはそれを浄化すれば良いという程度の認識しかない。その浄化は、神社のお祓いとか人の美しい心に触れれば自然に目が覚める、というような簡単な話ではないのだ。この内なる悪の現実を仏教は「煩悩への執着」として正しく理解している。神道に欠けているこの深い自己認識を伝えるために、仏教は日本に伝来したのだと私は思う。

その結果、煩悩への執着から解脱して本来の仏性に目覚めるべしという概念だけは確かに日本精神に定着した。しかしながら、仏教は明示的に神を説かない。それは釈迦が神学を無意味な形而上学として禁じたためである。ということは、釈迦は神との人格的出会いがイエスのようにはできていなかったということを意味する。ゆえに仏教は解脱の意味を明示できず、その解脱を成仏と呼び、成仏と死ぬことが同一視された時、生きているうちに解脱すべき努力目標は完全に放棄されてしまう。そしてあくまでも可能的善性である仏性を現実的善性と誤認すれば、仏教も自分の心を内在神とするB類型の誤りに陥る。

生きているうちに解脱する(つまり悟りを開く)ことなどできるか?と思われるだろうが、それは聖人だけに得られる神秘的境地ではない。結論だけ言えば、今まで意識できなかった神の存在を明確に意識して、自分の心の中で神の呼び掛ける声を聞こうと努力する生活態度に切り替えるだけである。これは本来、日本人が無意識にやってきた生き方であろう。しかし、神を明確に意識化することをしなかったので、B類型に堕する危険が常にあった。それでも、限りなく真の有神論に近い日本精神の美しさはまだ健在である。例えば神谷さんが良く話す煉獄さんの母の教育は、伝統的な日本の正しい教育である。

神から授かった才能は、人のお役に立つために与えられたのだから、自分のためだけに使ってはならない。自分一人で喜んでも、それは決して真の喜びではない。先ずは身近な仲間のため、ひいては社会全体のためにと思って頑張れば、それは全員の喜びとなり、自分にとっても最高の喜びとなるのだ。これこそ日本のアニメのメインテーマであり、世界中の人々にも共感を広げている。『鬼滅の刃』もそうだが、もう一つの代表例は『ワンピース』であって、これも仲間のために全員が命を張って闘う物語である。それが各人の最高の喜びなのだから、仲間を愛することと自分を愛することは完全に一致するのである。

この「和の精神」が縄文時代以来の日本の心であることは日本人なら誰でも理解している。戦国時代にも朝廷を中心とする一体感は常にあり、江戸時代には持続可能な循環型社会を確立したが、幕末からグローバリズムと衝突し、世界的な戦国時代に突入した。この時、世界は初めて見る日本兵の強さに恐怖した。それは個人の強さではなく集団となった時の驚くべき団結力と死をも厭わぬ使命感の強さである。この恐怖ゆえに日本は二度と戦争できない非武装国家とされてしまったが、その代わり経済活動で一致団結して奇跡的な復興を果たした。これも全体の繁栄と自分の繁栄は同じという松下幸之助の精神であった。

「自分を愛すること」とエゴイズムは全く異なる。自己中心の喜びは最低の喜びである。エゴイズムの結果は自己破滅であることを本心では知りながら、生きる意味が分からないので、むしろ破滅を願っている。この自己憎悪がエゴイズムの正体である。そしてC類型の根底にはこの自己憎悪があることを前回語った。それゆえ西欧的C類型が日本精神から学ぶべきことは、この「皆で頑張る喜びこそ最高の喜びであり、それが真の自己愛である」という、日本人にとっては当たり前の和の精神なのである。ただし、その和の精神が相互依存の甘えの構造になってしまえば、B類型の悪になることも既に語った。

だから逆に日本人が西欧精神から学ぶべきことは、超越神を明確に意識して、神の前に一人で立ち、神に恥ずかしくない生き方をしているか否かを常に自己精査できる真の個人主義であると言える。本来この個人主義もエゴイズムとは全く異なるものだが、神を見失えば様々な偶像に支配されて、リベラリストのエゴイズムに堕する。今回は簡略に語ったが、このように西欧的なC類型と日本的なB類型は見事なまでに正反対であり、だからこそ互いに学び合うことができる。それを弁証法的な止揚統一として理解できれば、真の有神論の悟りを得て、真の世界平和を達成できることについて、次回以降に語っていきたい。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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