神学的決定論はC類型

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今回は、D類型の出現に対して直接的に責任を問われるべきC類型の神観について語る。C類型の神観とは「超越神」を「外なる神」とする立場であり、その代表はキリスト教の神学的決定論であるから、このCはキリスト教のCと考えても良い。「超越神」とは世界を超越した「あの世」に存在する神ということである。あの世を「天」と表現する場合もあるが、それはあくまでも象徴的な意味である。それはこの世の感覚を超越した異次元の世界であろうから、感覚的に知ろうとするのは無理だし、科学的理性は必ず論理矛盾に陥る。この世でやり切ったという自信があるなら、死後の世界を心配する必要などない。つまり自分がこの世を卒業するには何を達成すべきかだけを考えて生きれば、それで良いのだ。

神の世界を科学的に知ることはできないが、哲学的考察はできる。それについて最初に語ったのはプラトンである。世界はこれ以上に驚くべき哲学を知らない。とにかくプラトン哲学がなければキリスト教神学は構築不可能であった。その意味で、これはまさに神が準備した哲学である。ところが、実際にキリスト教神学を支配したのは、彼の弟子アリストテレスの哲学を介して再解釈された新プラトン主義であり、これが最悪の結果を招いた。アリストテレスは師の哲学を継承しているように見えて、基本的な世界観と使命感は全く継承していない。これがC類型の神観を生んだという問題について考えてみよう。

プラトンの神観は『ソクラテスの弁明』において明らかである。彼の思想は晩年を除いて全てソクラテスの言葉として語られるが、それは彼の尊敬する師の遺志を継ぐことだけが彼の生涯の目標だったからである。ソクラテスは次のように語る。自分には子供の頃から神の声が聞こえて、何か間違ったことをしようとすると制止されるのだが、自分を死刑にしようとする裁判に臨もうとする時、神は何の制止もしなかった。つまり、この裁判で死刑に処されることは私にとって善だというのが神の意志である。こうして無実の罪での死刑を受け入れたソクラテスは、逃亡を勧める弟子たちを戒め、従容として毒杯を仰いだ。

実際この事件が、劇作家を志望していたプラトンに無限の衝撃を与えて至高の哲学者に生まれ変わらせたのだから、これは確かに神の意志であった。神はソクラテスの意志を無視して死の道を強制したのではない。それは完全にソクラテス自身の自由な意志であった。このように、神は人間の自由意志に霊的に語り掛け、ただ方向だけを示して導く存在であるというのが、ソクラテスの言葉として語ったプラトンの神観である。そして彼は後年、神の声に従いシラクサの王を訪ねて彼を助け理想の王国を作ろうとしたが、王と対立して奴隷に売られ、奇跡的に友人に買い取られ解放される、という劇的な人生を歩んだ。

ところが、アリストテレスはこのようなプラトンの使命感と生き様を全く無視した。彼の貴族的生活を理想とする神観がキリスト教に与えた害毒は測り知れない。彼にとって実践は奴隷の卑しい仕事であって、最も高貴な仕事は観想(哲学的な思索)である。それゆえ神は天上で観想にふける最も高貴な王とされた。アリストテレスは神を「純粋現実態」と呼ぶ。現実態の反対は可能態で、これは理想が現実化していない状態である。純粋とは可能態を含まないということだから、神の理想は全て叶えられてしまっていることになる。そんな状態がどれほど退屈かは、菊池寛も短編『極楽』で描いたし、誰でも分かる。

しかし、逃れようのない悲惨な現実として絶対専制君主に虐げられていた古代・中世の世界では、その王侯貴族の生活を理想の状態として羨望した結果、神を全世界に君臨する絶対的権力者としてイメージしてしまったのは仕方がないし、そのような世界の無力な民として生まれてしまったことを憎む自己憎悪に陥ってしまうのも仕方がない。超越神を外なる神として恐れるC類型は、そのような悲惨な世界における典型的な人間類型である。到底抗うことのできない絶対的権力者の前で己の無力を悟った人間が選べる道があるとしたら、それはどのようなものであろうか?それは自ら権力者の前にひれ伏し自己否定する姿を見せることによって、最も忠実な奴隷として認めてもらうことしかないのである。

このような処世術は全ての強権体制の中で常に繰り返されてきたが、その絶対的権力者が神である場合、心の中まで見透かされているという恐怖のため、面従腹背など不可能で、心の底から神の奴隷に徹しなければならない。そしていつしかそれが神を愛することだと錯覚し、神を愛するとは自分を憎むことであるという中世的な一般通念となる。しかも、実際にC類型は自分が生まれてきたことを憎むような卑屈な人間類型であるから、この通念は彼らの自己憎悪を正当化して助長する役割を果たし、真の自己愛に関するイエスの教え(後述)を忘れて自己愛を短絡的に罪とする教義を生んだのである。こうして、修道院の中では自分を鞭打ち血だらけになるようなおぞましい光景が繰り返された。

このような憎悪は自分だけでなく他者にも向けられる。即ち、神の忠実な奴隷であることを証明するために、不信仰者を憎み最も苛烈な迫害者となる生き方が正当化される。魔女や異端者を焼き殺す審問官や十字軍兵士となることがそれである。こうなると、神の敵を殺すことが絶対的正義であり、自分は最も忠実な神の兵士として神のためなら何をやっても許されるのだから、自分は神に等しいと勘違いする自己絶対化に陥るのは必定となる。彼らは、不信仰者が罪を重ねる前に殺してあげることが神の愛だとさえ錯覚し自己正当化する。こうしてイエスの愛の教えは狂気の憎しみのドグマに変貌するのである。

彼らが「神を愛している」と考えるのは明らかに錯覚であり、実際には神を恐れている、というより憎んでいる。それは支配者にへつらう奴隷と同じ精神状態である。C類型の場合、この神への無意識の憎しみが自分自身への憎しみとなって跳ね返り、さらには他者への憎しみとなって無限に拡大する。彼らは神と自分と他者を愛することができず、その責任から逃避する。イエスは先ず「神を心から愛せ」と言われた後「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)と言われた。これを「誰でも自分は愛せる」という浅薄極まる大前提で「だからその程度には隣人も愛せ」などと常識的に解釈してはならない。イエスは誰も自分を愛せないからこそ他人も愛せないという根本的な現実認識を大前提としているのだ。

さらに言えば誰も神を愛していないから自分を愛せない。だから先ず神を真に愛せと言う必要があった。神を真に愛することが自分を真に愛することであり、自分を真に愛することが他者を真に愛することである。この「真に愛する」とは「真に喜ばせる」ということであるが、自己愛の場合、それが低次元の利己的な喜びに歪曲されてしまうから問題なのである。自分にとって真の喜びとは、真の自己を実現することであるはずだ。こうして、自己愛という言葉は最悪の利己主義から真の自己実現まで様々な意味合いを持つので、注意深く使う必要がある。この問題については次回以降に語ることとして、今回はC類型の自己憎悪に含まれる真理にも簡単に触れることで、一応の区切りとしよう。

C類型の人々が自分を憎む理由には、底知れぬ悪が自分の中にあるという正しい自覚もある。この原罪意識がC類型の真理部分と言って良い(これを日本的なB類型の人々は学ぶ必要がある)。地獄のような世界の中で生き残るためには、自分も何をするか分からない。だから人間は全て悪人であると自覚する罪意識は真の悟りへの第一歩である。日本人なら「人間は弱い存在だから仕方がない」とか言い訳するだろうが、悪の現実から目を背けるだけでは何も解決しない。先ず罪意識を持った上で、次にどうするのかが問題なのだ。というわけで、C類型と互いに学び合うべきB類型について次回は語ろう。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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