科学的決定論はD類型

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前回は想定可能な四類型の神観を示して「超越神」を「内なる神」として認識するAの立場が真の有神論であると述べた。今回はそこから最も遠いD類型の神観について説明する。それは「内在神」を「外なる神」として認識する立場で、その代表は科学的決定論である。「内在神」とは世界に内在する偽りの神(物質、人間、思想等)であって、この偶像崇拝が無神論の正体である。神を必要としない人間は居ないので、神を否定する無神論者も、その代わりに依存できる神の代替物を絶対的に必要とする。「自分は神など拝まない」と言いながら、偽りの神である偶像を崇拝するなら、論理的には自己矛盾でしかない。

その代表例が進化論であった。ダーウィニストは「進化を科学的に理解できない者が全能の神という安易な迷信を信じるのだ」と創造論者を馬鹿にしてきたが、中立進化説を真に理解した立場からは「進化を偶然の効果まで正確に計算して真に科学的に理解できない者が全能の自然淘汰という安易な迷信を信じるのだ」と言わねばならない。ダーウィニストにとっては自然淘汰が進化を百%支配する偽りの神であったが、話を科学全体に広げれば、科学的決定論者にとって自然法則が宇宙を百%支配する偽りの神なのである。この自然法則と同時に、それを発見した人間理性も神格化されたことは前回述べた。

それらが神格化されたのは、ニュートンの発見した全宇宙を支配する力学法則が余りにも美しく、またそれを発見したニュートンの理性が余りにも素晴らしかったためであるが、自然法則も人間理性も神の被造物に過ぎない。神の創造が余りにも素晴らしいがゆえに被造物そのものを崇拝し、あまつさえ、その被造物の素晴らしさから逆に抽象して神という概念が作られたのだと無神論者は言う。これほどまでの本末転倒があろうか?全ての偶像崇拝の第三の本質は、この本末転倒である。本来の正しい関係性を転倒すれば憎しみが生まれ、闘争の歴史を生んでしまう。即ち偶像崇拝の本質は①偽りの神②責任放棄③本末転倒④悪の創造として分析できることを、以後の記述の中でも示していきたいと思う。

ところで自然法則が我々の外側から我々を支配する外なる神であることは明らかだが、人間理性も外なる神であることについて説明しておく。近代人が人間理性を神格化した時、それは決して自分の理性ではなく、ニュートンのような偉大な科学者の理性を理想的な人間理性として仰ぎ見たのである。今でも人々は自分の頭で考えて科学的真理か否かを判定できているわけでは決してなく、メディアが流す「専門家の意見」を聞いて「権威ある科学者が言っているから真理だ」と信じているだけだろう。だから神格化された人間理性は自分の理性ではない外なる神で、大衆はそれを仰ぎ見る見物人でしかないのだ。

この事態は教祖を崇拝するカルトでも同じだが、その教祖が超越神を説いている場合はC類型とも言えるので、有神論的カルトについては次回に語る。以下では無神論的カルトについて語ろう。様々な絶対的正義のプラカードを掲げて自分たちの主張だけを一方的に押し通そうとする全ての政治運動はD類型の誤りである。彼らの正義が偽りの正義であることを示す指標は単純明快で、それは、自分たちの言論の自由だけを一方的に主張し、反対勢力の自由は一切認めない、という自己絶対化である。安保闘争はその典型例であり、私も七〇年安保闘争に関わった一人であるから、この誤りについて反省しておきたい。

この運動の本質が政治の問題ではなかったということについては、私より十年先輩の六〇年安保の世代を代表する西部邁や田原総一朗のような人々が「安保条約など読んだことはない」と悪びれもせず当たり前のように述懐していることからも明らかである。これらの運動に参加した多くの学生を突き動かしたものは、彼らが無意識のうちに求めた自律への渇望であった。自律を求めるのは人間の本性だから、これは時代的背景の問題でもなく、その時かりそめの偶像となった特定のイデオロギーに帰すべき問題でもない。

その特定のイデオロギーというのは、多くの場合マルクシズムであるが、真の問題は各人の内なる生き様であって、時代的背景や既成のイデオロギーは外的要因に過ぎない。マルクシズムが結果的に他律的体制しか生まないことは歴史的に明らかであるが、自律を求めた学生がなぜそのような偽りの正義に惹き付けられたのか?これは結局、カルト宗教に若者が惹き付けられるのと同じ、人類共通の偶像崇拝の病理である。政治的イデオロギーであろうと、宗教的ドグマであろうと、それを受け入れれば世界を変える運動の一員として正義の味方になれるという極めて安易な偶像崇拝が、自分は命を張って世界を変えようとしている真に自律的な人間であるという束の間の幻想を与えてくれたのである。

岡林信康が「夜明けは近い」と歌い、学生運動の仲間が集まれば「インターナショナル」を歌った。だから彼らが日本革命の成就する日は近いと夢見たことは事実である。しかし、それはあくまでも幻想に過ぎなかった。そして本心では皆、そんなことは分かっていた。それでもとにかく若者は自らの命を燃やす大義が欲しいのだ。ゆえに今日でも様々な正義を掲げて運動する若者が絶えることはない。しかし、彼らが一様に叫ぶスローガンが自分の頭から自発的に生まれたものとは到底思えない。それが誰かの受け売りであることは明らかである。その誰かの大元締めが、メディアをも支配しているグローバリストである。

今も昔も出来合いの正義に安易に飛び付く若者は危険である。そのような人々は、その正義そのもののいかがわしさにも気付かず、絶対的(と誤認されている)正義の「虎の威を借る狐」として自分を絶対化する。自己絶対化とは自己神格化であり、実際には偶像の奴隷でしかない自分を神とする錯覚である。自分を神とするということは、何をしても許されると考える全能感を持つことである。即ち、いかなる手段(例えば陰謀や暴力)を用いても反対者を抹殺する神のような権利が自分にはあると考えてしまう。その根底には明らかに、神が実際にそのようなことをする絶対的権力者であるという誤った神観がある。神を否定する者も、その神観だけはちゃっかり借用して自分に適用しているのだ。

だからこそ、全ての悪を正当化している誤った神観を正すことが最優先の課題となる。真の神はいかなる強制的手段も用いず、忍耐強く説得を続ける「我と共に在る神」である。その根底にあるものは人間の主体性を真に尊重する愛であり、自分の正義のために他者の主体性も自由も無視する強権的な憎しみではない。この根本的道理が分からないから「革命のためには犠牲も必要だ」と正当化して殺し合う惨劇が起きるのである。もちろん、そのような正義を第一義として愛を忘れたどころか「殺してあげることが愛だ」とさえ勘違いする神観を生んだのはキリスト教の責任である。近代の無神論者はその誤りを全く無反省に引き継いだに過ぎないので、次には全ての元凶の中世教会に戻って反省しよう。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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