想定可能な四類型の神観

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前回、偶像崇拝の説明をしようとして非常に苦労し、結局、日本的な偶像崇拝の典型例という話しかできなかった。今読み直しても、いきなり偶像崇拝と言われて正しいイメージを掴める人は少ないだろうと反省している。しかしとにかく、様々な現れ方をする偶像崇拝を全て克服しなければ真の神観には到達できない。これが私の哲学のキーコンセプトなのだから、何とか分かり易く説明し直さなければならない。先ずは偶像崇拝の具体例のケーススタディをやっておくべきだったと反省して、以下に幾つかの代表例を示す。

偶像とは「神でないのに神とされたもの」である。その文字通りの意味は神の像であって、目に見える偶像を神として拝むことが罪とされたのである。出エジプト記の第32章によると、モーセが山に籠って指導者が不在であるためにイスラエルの民は不安を覚え、目に見える神として金の子牛の像を作り拝んだ。本来、神は目に見えるものではなく、各人が魂の奥底で神に出会う霊的努力が求められる。その手間を省いて簡単に神を見たいと願った人々の根本的怠惰を神は罪とし、モーセが刻んだ最初の石板は砕かれてしまった。これが偶像崇拝の原初的実例であるが、だから神の像は全て悪だと考えるのはおかしい。

神とモーセを怒らせたのは安易に神を見たいと考えたイスラエルの怠惰な態度であって、偶像自体が悪なのではない。後年、ギリシア正教のイコン崇拝が偶像崇拝と非難されて、東西教会の分裂の原因になってしまったが、私はイコン崇拝に問題はないと考えている。ギリシア正教徒およびその伝統を受け継ぐロシア正教徒はイコン(聖像)そのものを神と考えているわけではなく、聖なるイコンの背後に神を感じて祈りを捧げているのである。即ちイコンは神を感じるための媒体に過ぎず、神は媒体を超越した存在であることは彼らにとって自明である。これは日本人が御来光の背後に神を感じて拝むのと全く同じである。

だから、ところ構わず拝む日本人を「偶像崇拝だ!」と非難するキリスト教徒に対しては、彼らの方が間違っていると私は言いたいのである。むしろキリスト教の神だけが神だと主張することこそ偶像崇拝であり、全ての全体主義はここから生まれた。神を一つの宗教が独占するということは、神を一つの教説の中に押し込めることである。それは一つの教説でしかないものを神とすることであり、教説自体は神ではないのだから、その教説を偶像とする偶像崇拝だと言わねばならない。ゆえに正統的教義だけを絶対化する正統主義は全て偶像崇拝である。このことを原理主義的キリスト教徒には良く理解して頂きたい。

モーセの第二戒が「偶像を崇拝してはならない」と言っているのだから神を表す美術も音楽も全て偶像であり禁止すべきだ!というプロテスタントにありがちな硬直した態度は、それこそ第二戒を絶対化する偶像崇拝だと非難されなければならない。つまり第二戒自体が偶像になっている全く愚かな態度である。何らかの教義や教祖を絶対化する態度は全て偶像崇拝であり、その別名はカルトである。ここでカルトの定義について言及しておくと、何か目に見える反社会的事件を起こした場合にのみ、その教団をカルトだと定義するのが通説だが、その原因となる自己絶対化そのものをカルトと定義すべきである。

ここで教祖の絶対化と信者の自己絶対化は同じことである。教祖は絶対に正しい神だから、その神を絶対的に信じている自分も絶対に正しいと考えているのだ。つまり人間は、自己絶対化するために絶対的な神を必要とし、自ら発明した偶像を絶対的な神としてその奴隷となるという全く愚かな生き方をするのである。要するに自分自身の「背中を見せる」生き様で自分の信念を表現するという生き方ができず、自分とは関係ない外力としての偶像の力を借りて自分を飾り立てる「虎の威を借る狐」に成り下がる根本的怠惰が問題なのだ。だから、人としての責任を放棄する根本的怠惰が偶像崇拝の本質だと言うのである。

一番分かり易い卑近な例を挙げよう。財産や地位や名誉は自分自身の内的価値とは全く無関係な外的価値で自分を飾り立てるためにのみ必要となるもので、そのような外的価値の奴隷となる生き方は偶像崇拝の最低の例である。最低の例はまだあり、刹那的な欲望の奴隷となることも偶像崇拝である。これは最低の生き方をしている自分を刹那的な快楽で紛らわしているのだから、最低の自分を絶対化しているわけである。この場合、欲望が満たされる時の快楽が全てを正当化してしまう神になっている。これは最低次元の人間信仰で「人間らしく生きれば良い」と開き直るリベラリストに多い特徴である。

以上で具体例は充分だと思うので、以下では本質的な分類により偶像崇拝を定義する体系的記述を試みる。人間が思い付く全ての神観を四つの類型に整理することによって、全ての偶像崇拝を分類定義できる、という図を冒頭に示したので見て頂きたい。先ず横軸は、神を自分の内側で感じるのか、自分と関係ない外力として認識するのか、という認識論的区分である。これを「内なる神」と「外なる神」と呼び分けることにする。次に縦軸は、神をこの世に内在すると考えるか、あの世に超越して存在すると考えるか、という存在論的区分である。これを「内在神」と「超越神」と呼び分けることにする。

このうち、神を「内なる神」であると同時に「超越神」であると考えるAの立場だけが真に正しい神観であると私は主張する。しかし、この悟りに到達することは極めて難しく、従来の神観は全て、神を「外なる神」と考えるか、それに反発して「内在神」と考えるかしかできなかった。これらの立場つまりB~D類型は全て偶像崇拝である。その理由を今回は簡単に説明し、次回から順番に詳しく説明していきたい。この体系的な整理ができて漸く、前回に予告した西欧精神と日本精神の和解の話に入ることができると思う。

先ず「外なる神」が真の神で有り得ないことは明らかである。何度も言うように、神を私の外側から働く力とするなら、神の働きと私の努力とは何の関係もなくなってしまう。それは私の意志を無視して私の運命とか私の生き方とかを押し付けてくる権威主義的な強制力でしかないであろう。中世教会の神も、共産主義のイデオロギーも、そして現代のグローバリズムが世界的な同調圧力で押し付けてくる脱炭素もSDGsも全て外なる神(要するに外圧)である。このような外なる神の奴隷になってしまう大衆とはまさに、自分の頭で考え自分の心で判断することのできないカルト信者としか呼びようがない。

次に「内在神」は定義からして真の神ではない。近代の無神論は中世の超越神を否定したが、その代わりに科学を代表とする内在神を偶像として崇拝しているのに過ぎない。近代人は科学法則を絶対化すると同時に、それを発見する科学者の理性が全ての真理を解明してくれると無限に信頼している。それは人間信仰という偶像崇拝である。実際、啓蒙主義時代の絵画では人間理性が女神として表現された。この啓蒙主義の理性信仰がプロテスタンティズムに流れ込んでリベラリズムが生まれた。もう一つ、人間の善性を無限に信頼してしまう日本的な和の精神も人間を内在神とする偶像崇拝であることは前回語った。

従って冒頭の図において、D類型は近代的な科学的決定論に代表される無神論、C類型は中世的な神学的決定論に代表されるキリスト教の偶像崇拝、B類型は西欧のリベラリストと典型的な日本人に見られる人間信仰の偶像崇拝である。最後のAの立場は類型と呼べるほどの集団が存在せず、イエス・キリストと彼の精神を真に理解した少数の人々だけに見られる真の神観で、これを私は「真の有神論」と呼びたい。本ブログはこの真の有神論により全ての人々が真の自律と真の連帯を確立すべきことを唱道する。それだけが世界平和への道であり、逆にそれが出来ないならもはや滅亡の道しかないと信ずるからである。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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