偶像崇拝は全人類の病

前々回に決定論は西欧文明特有の病であることを語ったが、その決定論の本質をより深く反省するなら、それは偶像崇拝という全人類共通の病であることを今回は語る。決定論は全ての謎を手っ取り早く簡単に(例えば「全ては神の業である」とか「全ての進化は自然淘汰の偉大な働きである」とかの一言で)説明してくれるので、心の安定を得るための思索の手間が省ける。その本質は、努力せずに心の安定を求める人々の根本的怠惰である。ところで安直に心の安定を与えてくれるものは他にも無数にある。例えば各種の依存症は、安易な慰めを与えてくれる酒や麻薬等に依存して、その奴隷となっている状態である。

このように自分自身の努力を必要としない外力に依存して、自分で自分を安定させる責任から逃避しようとする根本的怠惰を偶像崇拝と呼ぶことについて前回は簡単に述べたが、これについてもう少し詳しく説明する。「外力」とは自分自身の力ではないということで、つまり自分の外側から支配する偶像=偽りの神である。自分と関係ない外力に依存して安直に求める心の安定は偽りの安定である。真の安定は私の謂う「健全な宗教性」により、自分の心の中に神を発見する求道心によってのみ得られる。真の神は外力ではなく、あくまでも魂の奥底で働く「内なる神」として自分自身の努力で発見しなければならない。

「そんな神は主観的幻想に過ぎない」という無神論的反発に備えるために、偶然を通じて世界と我々に情報を与え続ける神の実在を私は示してきたのだ。即ち、真の神は私の心の中で出会う「内なる神」であると同時に全ての人に等しく語り掛ける唯一の神である。この真の神観は日本人には全く抵抗なく受け入れられる「日本の心」だと私は信じている。真に私を解放するのはその真の神との出会いだけなのに、自分で勝手に造った偶像を神の代替物として依存する偽りの安定は、偽りの自分を正当化する自己絶対化の誤りとなる。こうして偶像の奴隷となり、自分で自分を閉じ込める魂の牢獄が即ち偶像崇拝である。

仏教が説く煩悩への執着も魂の牢獄を意味しているので偶像崇拝と同義であり、その執着から解脱すべきことは仏教用語を日常的に用いている日本人なら皆理解している。しかし、どうすれば解脱できるのかについて、仏教は明確な答えを示せていない。それは、煩悩の数が百八つと言っても様々に思い付く欲望を適当に数えているだけで、正しくは全人類が考え付く全ての偽りの神を克服すべきだという本質的な理解ができていないからである。例えば、西欧と日本の代表的偶像は、互いに見事に正反対で、性悪説と性善説がテーゼとアンチテーゼを構成しているので、弁証法的に克服可能である(詳細は次回)。

結論から言えば、西欧的な偶像は「脅迫する偶像」であるのに対し、日本的な偶像は「甘やかす偶像」であり、それぞれ正反対の形で自己絶対化の誤りを生むのである。西欧的な偶像とは恐ろしい審判者にされてしまったキリスト教の神であり、それが「脅迫する偶像」であるのは見易いだろうから、その話は次回に回す。以下では日本的な偶像がなぜ「甘やかす偶像」になるのかについて考えていこう。日本的な偶像は阿弥陀如来や観音菩薩のような優しい仏様で象徴される。恐ろしい審判者であるはずの閻魔大王の説話もあるが、閻魔様も日本ではアニメのキャラクターにされてしまうくらいで誰も恐れていない。

日本人が崇拝するのは「人の優しい心」だけなのである。日本でベストセラーになる小説は圧倒的に「人の優しさで救われる物語」であって、これはもはや優しさの神格化である。ゆえにこれが日本的な偶像崇拝であると言える。最近では『鬼滅の刃』が人気であるが、主人公の炭治郎は優しい人間の代表で、鬼は悪人の象徴であるが彼らも鬼になる前は人間の心を持っていたことが描かれる。炭治郎は鬼を殺すが鬼の悲しい境涯に限りなく同情し、そのシーンで映画の観客は泣くのである。鬼にさえ同情する日本人の心は確かに優しい。しかしそれは同時に、自分にも優しくして欲しいという甘えの願望でもあるのだ。

つまり日本人は、自分に優しくしてくれる、もっとはっきり言えば自分を甘やかしてくれる神様が欲しいのである。その神様は具体的には周囲の人間の優しさであって、皆が優しくしてくれる限り、日本人は心の安定を得て生きていける。しかし残念ながら実際の人間は神ではない。だから人間信仰は偶像崇拝でしかないのである。ここで偶像崇拝の正確な定義を与えておこう。それはモーセの十戒を正しく理解することにより「神でないものを神とすること」と定式化できる。キリスト教の神の場合はややこしいが、神観が間違っているので偽りの神であり、だからキリスト教は偶像崇拝なのである(詳細は次回)。

仏教では全ての人に仏性があると説くが、それは私の心の中で出会う真の神を指し示す。仏教は神を説かないが、それはキリスト教のような神観は否定するということであって、真の神と出会うべきことについては、それを解脱の境地として教えていると解釈できる。しかし、日本ではここで大きな間違いが起きる。全ての人に仏性があるからといって、人間が初めから仏様であるわけはない。仏性はあくまでも神に出会える可能性として備わっているもので、各人が神に出会う努力をして解脱すべきなのに、それが完全に無視されて、人間の善性に無条件で信頼するという日本的な偶像崇拝の誤謬が起きてしまった。

「人を無条件に信頼する」ということは、いかなる意味でも善ではなく、はっきり言ってそれは悪である。これは日本人に対してどれほど強調しても足りないと言わねばならない。例えば、子供に「知らない人と話してはいけない」と教える母親が「人を信じることを教えられないのは悲しい」などと言うことがある。つまり「人を信じるのは善いことだ」という日本的大前提は全く疑っていないわけである。日本のアニメでは、悪人に何度攻撃されても信じ続ける主人公に、悪人が最終的に感動して心を入れ替えるという安易なシナリオが良く見られる。これを本当にやる気なら自分を殺す敵をも愛し許すというイエス・キリストほどの愛が必要だが、そこまで描く覚悟も無いこのようなシナリオは偽善である。

誰かを信頼するというのは、相手が必ず自分の期待に応えてくれることを当然だと思っている甘えでしかない。で、裏切られれば「人が信じられなくなった」と言って落ち込むが、無意識では必ず「信じてあげたのに期待に応えなかった」と相手を非難しているだろう。相手は信じてくれなどと頼んではいないのに、勝手に信じて期待通りにならなかったら勝手に恨む。これは相手が悪いのではなく勝手に信じた自分が悪いのにそれが分からない。たとえ相手が信じてくれと約束した場合でさえ、同じことである。人間が必ず約束を守るなどということは有り得ない。それを予測しないのは愚かという以上に甘えである。

人間は神ではないので必ず過ちを犯す。日本人もそれは分かっているが「人間は弱いものだから仕方が無い」と言って誤魔化し、自分の内なる悪から目を背けて生きている。多くの傲慢な若者は「神など居ないが強いて言うなら俺が神だ」と実際には欠陥だらけの自分の生き方を正当化し、自己絶対化して生きている。これが甘やかす偶像に支配された現在の日本の惨状である。もちろんこれは決して本来の日本ではない。本来の日本精神の素晴らしさを取り戻すべきことについては多くの保守論客が語っておられるので、詳細はそちらに譲るが、その前に先ず日本の誤りを正すために、西欧精神に学ぶべきことが多くある。それゆえ次回は、西欧精神と日本精神をいかに止揚統一するかを考えていこう。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

sanseiをフォローする
未分類
sanseiをフォローする
sansei

コメント

タイトルとURLをコピーしました