創造論と進化論の和解方案

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決定論の悪を徹底的に糾弾した前回の準備作業を踏まえて、今回は最終的に創造論と進化論を和解させるための方案を冒頭の図を使って示す。ある対立が絶望的な矛盾と見えてしまう理由は、互いに両立不可能な絶対的誤謬を抱えているためであり、実際にはどちらにも真理部分はある。それがどちらも真理であるなら、それは必ず一段高い真理の裏表として両立可能であることが分かるはずである。その一段高い真理の観点から両者の真理部分を二面的な真理として再解釈することで、全ての矛盾は止揚統一できる。これが私の考える弁証法である。弁証法という言葉の基本的な意味は対話であり、対話により互いが進歩できるということだが、明確な方法論として提示することは誰にもできなかった。

その理由は、互いが絶対的真理と主張して絶対化する核心部分こそが絶対的誤謬であり、なおかつそれが本当の真理部分と混同されているために、誤謬部分と真理部分を切り分けることが非常に難しい、ということが分からなかったからである。しかし、互いの自己絶対化こそが絶対的誤謬であるという判定基準が分かってしまえば、その切り分けは容易となる。そして、互いの真理部分が真理である証拠に、両者が決して矛盾せず今まで気付かなかった新しい真理の裏表として理解できる、ということさえ気付くことができれば、互いの真理部分を二面的真理として再解釈することが可能となり、ここに和解が成立する。

ただしそのためには、互いの絶対的誤謬を捨てることが大前提として要求されるので、自分だけが絶対的に正しくて敵は絶対的に誤りと主張する自己絶対化が絶対的誤謬であると心から納得する必要がある。自己絶対化でしかない硬直した信念を絶対的確信と表現する人々がいるが、自己絶対化することと絶対的確信を持つことは、実は正反対の態度である。真に絶対的確信を持つ人は決して自己絶対化せず、全ての反論に対して誠実に思索して答えようとするであろう。逆に自己絶対化するのは絶対的確信が無いことの証拠であり、だからこそ全ての反論を陰謀や暴力で排除するという発想しかできないのである。

この和解の方法論を、創造論と進化論の対立について具体的に適用すると冒頭の図となる。互いの絶対的誤謬は前回批判した決定論である。創造論の絶対的誤謬は神の全能性を絶対化する神学的決定論であり、進化論の絶対的誤謬は自然淘汰の全能性を絶対化する科学的決定論である。二つの偽りの神が生命の創造主の地位を僭称して自己絶対化している。二つの神が並び立つことは不可能であるため、創造論と進化論は和解不可能な絶対的矛盾と見えてしまうのである。しかしそれはあくまでも「そのように見える」という見掛けの矛盾であり、二つの偽りの神をどちらも追放してしまえば矛盾の種は消えてしまう。

そして両者の絶対的誤謬である決定論を追放しても、それぞれの真理部分は確かに残る。今まで全能の神の業と混同されていた「神の創造」は非決定論的に再解釈すれば正しい。また今まで自然淘汰と混同されていた「種の進化」も非決定論的に再解釈できることが、中立進化説やエボデボ革命等の科学自身の結論として分かっていることは既に説明した。その互いの真理部分を互いの絶対的誤謬である決定論から切り離して非決定論的に再解釈する作業は、既に何度も語っているのだが、もう一度整理すれば次のようになる。

先ず進化論の真理から考えてみると、全ての生命が約40億年前に誕生した原始生命体から進化したという科学的現象自体は確かに認められる真理であるが、その進化の具体的メカニズムを「全能の自然淘汰の力」で説明してしまう科学的決定論の絶対的誤謬は完全に否定しなければならない。正しい進化のメカニズムは、既に説明した通り、偶然の突然変異が偶然の中立進化によって蓄積され、隠れた(従って自然淘汰に掛かるわけがない)潜在能力を準備して、最後に偶然の遺伝子スイッチの突然変異によってその潜在能力が一気に現実化するという、最初から最後まで百%偶然のプロセスである。

次に創造論の真理は、宇宙も生命も全て神の創造であるという形而上学的本質を認めることであるが、その創造の具体的手段を「全能の神の直接的介入」で説明してしまう神学的決定論の絶対的誤謬は完全に否定しなければならない。正しい創造の手段は、宇宙においては様々な相転移の際に起きる偶然の対称性の破れを通じて物理定数に代表される情報を与えて最適な宇宙が作られるように導き、生命においては突然変異に代表される様々な偶然の事象を通じてDNA情報を与えて最適な生命システムが作られるように導くことである。これらは全て偶然を介した間接的介入だから神は一切の物理的力を行使していない。

こうして、絶対的誤謬である決定論を追放して、全てを非決定論的に再解釈すれば「進化の現象的原因は百%の偶然であるが、その結果である生命体が高度な合目的性を持つ本質的原因は神が偶然を介してDNA情報を与えたからであり、これが即ち神の創造である」と矛盾なく解釈できる。こうして生命の進化と神の創造は全く同じ真理の裏表となる。つまり同じ偶然の事象についてそれを単なる科学的現象として観察するか、その形而上学的本質を洞察するかという見方の違いによって二面的真理が現れたのだと悟ることにより、今まで誰もできなかった創造論と進化論の弁証法的統一が達成されるのである。

以上、創造論と進化論の和解はほんの一例なのであって、この和解の方法論は全ての絶望的な矛盾対立に適用できる、と私は主張する。その根拠は、もちろん、全てが唯一の神の創造であるなら、全ての真理は究極的に一致するはずだと信じるからである。と言えば、一神教ならキリスト教と同じだ!と反発される可能性があるので、私の日本的神観とキリスト教の神観の根本的違いを説明しておく必要がある。神を絶対化するキリスト教の誤謬は神学的決定論の誤謬であるのに、これを「一神教の誤謬」として安易に批判するのも、それに比べて「日本人は多神教だ」などと主張するのも、全く的外れな誤りである。日本の神観についてはいずれ詳しく語らねばならないが、ここでは簡単にまとめておこう。

神が全人類の神であるなら、一つの宗教が「我々の神だけが真の神だ」と言って神を独占することなどできるわけがない。神は我々一人一人の心の中に等しく住まわれるのだ。これが日本的神観であるが、だからといって神は主観的幻想だなどと言うことはできない。各人の内なる神は各人の勝手な幻想なのではなく、同じ一つの神である。だからこそ同じ御来光の光景に対して日本人は心を一つにして拝むのではないのか?ここで、御来光自体が神だなどと言っているのではない。日本人は神を感じたらところ構わず拝むのであって、その場所が神なのではない。感じている神は常に一つである。この各人に共通の一つの神が私にとっては「我と共に在る神」なのである。これ以上は後日もっと体系的に語る。

そういうわけで、キリスト教が勝手に独占している神とは全く異なる意味で、神は一つである。そして人には誰でも、その真の神に出会いたいと願う本性がある。しかし「神が居るなら見せてみろ!」などという見物人的態度を取る限り決して神を見ることはできない。この根本的怠惰のゆえに、真の神よりもっと手軽に見たり聞いたりできる偽りの神を人々は求める。この神の代替物(偽りの神)を「偶像」と呼び、各自が勝手に選んだ偶像に依存して偽りの心の安定を求める偽りの生き方を「偶像崇拝」と呼ぶ。全てのカルトはこの偶像崇拝であるが、基本的に全ての人々は何らかの偶像に依存して生きているので、カルト信者と何も変わらないのである。この全人類共通の病について、次回は語ろう。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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