進化論の誤りは経験論の誤り

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次回から詳細な進化論批判に入る前に、進化論の誤りの本質をその経験論的大前提の誤りとして理解する認識論批判が不可欠と考える。全ての能力は、経験論的な進化で獲得したものではなく、初めから持っていた潜在能力の発露なのである。AIが神になれない根源的理由は、真理認識能力が人間のみが持つ霊性に依るもので、それがAIには無いからである。また、サルがヒトになれない根源的理由は、言語能力がヒトのみが持つ左脳に依るもので、それがサルには無いからである。動物には人間の右脳に相当する脳だけがある。これは知覚や感情を司るもので、この感性能力まではヒトとサルで(程度の差はあれ)共通だろう。

この人間の認識能力を①感性②悟性③霊性の三段階の能力として分けて考える必要がある。ここで前回「理性」と呼んだ能力を「悟性」と呼び直す。「理性」という用語は余りにも多義的に使われて混乱を招くので、余り使われない「悟性」を「左脳の言語機能」の意味に限定して用いたい。そしてそれを超えた「人としての心」を「霊性」と呼ぶ。この「浅薄な理屈を超えて真善美の価値を判断できる人としての心」は日本人なら誰でも普通に分かると思うのだが、これを英語で表現しようとすると非常に苦労する。Heartが最も近いのかもしれないが、これでは単なる情的な心という意味しか伝わらないのである。

情的な心と言っても、動物的感情(つまり右脳の心)もあるし、真理に触れて魂が震える(まさに参政党の街頭演説で参政党支持者が体験する)人間だけの心もあるのであって、後者は動物的感情とは全く次元の異なる霊的な「人としての心」としか表現できないものである。この動物的感情と霊性を明確に区別して、霊性を最高段階の真理認識能力として正しく理解することが認識論の最重要課題である。結論から言えば、①の感性は動物と人間に備わり、②の悟性はAIと人間に備わり、③の霊性は人間だけに備わる。そしてこれら全てが、経験的に獲得した後天的能力では有り得ず、先天的能力である。

カントは『純粋理性批判』で①と②の先験的形式だけは確かに理解したが、③はついに理解できず『実践理性批判』は失敗に終わった。ここに西欧的心性における霊性の悲劇的欠如という大問題がある(これについてはいつか必ず語らねばならない)。とにかく上記の結論から、サルの叫び声が経験論的に進化すれば言語能力を獲得してヒトになれるなどということは有り得ないし、論理計算しかできないAIが進化して真理認識能力を持つなどということも有り得ない、という本質的な理解が可能となる。本来これを論証するには膨大な議論が必要となるが、これを何とか簡潔に述べることを今回の目標とする。

①感性段階において、知覚する主体はあくまでも人間あるいは動物である。しかるに外界がそのまま感覚器官を介して脳に知覚を送り込み、感性が進化すると考えるのが進化論の幼稚な(バケツ理論と呼ばれる)認識論である。人間の頭は目鼻耳口の穴が開いたバケツではない。バケツをプールに入れれば穴から水が入るように自動的に知覚が入ってくると考えるバケツ理論の誤りは、ユクスキュルの環世界概念を学べば誰でも分かる。我々の感覚器官は初めから何を知覚するかを想定して設計された高度なセンサなのである。

例えば我々は見ている物に輪郭があるのは当然と思っているが、輪郭は網膜の空間微分機能によって視覚に追加されたものであり、これが無ければ我々はのっぺらぼうな視界から個物を切り分けて認識するということができない。また耳にはフーリエ変換機能があり、音波を周波数スペクトルに分解して知覚することができる。この機能が無ければ絶対音感を持つことは不可能になるだろう。さらに大脳視覚野には様々な驚くべき信号処理機能があり、ここから錯覚と呼ばれる現象も起きる。だから我々は「あるがままの世界」を見ているのではなく、意図的に設計された「色メガネ」を介して見ているのである。

②悟性段階において、概念を形成する主体はあくまでも人間である。例えば、あなたは犬を何匹見たら犬を見分けることができるようになったか?経験論的に学習したというなら、世界中の犬を「これは犬だ」と見せて教えてもらわなければ、犬と犬でないものを切り分けることはできない。犬は余りにも多様だから、このような経験論的学習は永遠に完了しないだろう。しかし実際には誰でも一回見るだけで「犬とは何か」が分かってしまう。だから我々は見る前から犬を知っている。言語表現はできないが「犬」の概念を一瞬で構築できる先天的能力を持っているのだ。これは概念レベルでの色メガネの働きである。

「色メガネ」とはカントの先験的形式のことで、もっと正確にはパターン認識における特徴空間への先験的写像と言うべきだが、どちらも難しいので不正確を承知で「色メガネ」で押し通す。上記の通り、感性の色メガネも悟性の色メガネも先天的に与えられたものであるなら、それが経験論的な進化の結果だということは有り得ない。我々は認識の主体だが色メガネを創った主体ではない。だから、その色メガネを設計して我々に与えた真の主体としての創造主を認めなければならない。その結論は、最後の霊性の段階、つまり真善美の価値認識能力について考察すれば、さらに動かしがたいものとなるのである。

③霊性段階においては、上記の色メガネ(カントの先験的形式)の代わりに真善美の価値認識の基準としてプラトンのイデアが先験的に存在することを認めなければならない。それは霊界あるいは神の心の中に存在し、我々の霊性によってのみ感知することができる。我々には確かに「人としての心」があり、真理を知る喜びや善を行う喜びを「魂が震える」感覚として感知することができる。西欧の哲学者はあくまでも理屈で真理と善を決定できると考えるが、最終的には心が「美しい!」と感動しなければ何かが間違っている。その魂の感動の体験も無く安易に盲信してしまえば「自分の心で判断できない」カルトとなるのだ。

だから真と善の最終的判断基準は美の感覚である。真と善は言葉でも説明できるが「美とは何か?」を言葉では説明できず「魂が神のイデアに触れた感動」としか言いようがない。特に真理を機械的に決定できる理想言語などは存在しないことをゲーデルが証明した、ということを前回述べた。ゆえに真理の認識とは、我々が「自分の頭(悟性)で」必死に考えた結論がイデアと合致した!という美の感覚を基準として「自分の心(霊性)で」真理と判定することに他ならない。これをアウグスティヌスは神の照明と考えたのであって、ゲーデルの真の功績はこの古代の認識論を復権する根拠を与えたところにある。

以上、①と②において経験論的本末転倒が起こり、③において理性論的本末転倒が起こるという近代の無神論的認識論の誤謬について述べた。いずれ機会があればまた詳しく説明することとして、準備作業はここまでとしたい。次回からは本当に(現代人が絶対に理解しなければならない)進化論批判の本論に入って行きたいと思う。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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