カルト vs 健全な宗教性

参政党がメディアに注目されるようになってから、参政党の街頭演説で黒山の人だかりとなる聴衆がほとんどマスクをしていないのを見て、やはり不気味なカルトだという人々がいる。しかしこの言葉はブーメランのように逆転して彼らに返される。参政党を支持していない(得票率から見れば97%の)人々は、夏の炎天下では熱中症になる危険の方がよほど大きいのに、全員マスクをして歩いている。これこそ真に不気味な「マスク教」とでも呼ぶべき全国的カルトであり、限度を逸脱したコロナ恐怖症と言う他は無い。

神谷さんは、このような日本の状況を「明るい北朝鮮」だと言う。全国民が洗脳されているという点では、日本も北朝鮮も全く変わらない。むしろ北朝鮮の場合は反抗できないだけで多くの国民は洗脳に気付いているだろう。その意味で、洗脳に気付くことさえできず何も考えていない(つまり無駄に明るい)日本の方が絶望的な状況なのであり、この状況に絶望した3%の人々が、参政党こそ求めていた政党だと喜んで投票したわけである。

そもそも、2020年2月にコロナが流行り始めた時、もちろん私も未知のウィルスは怖かったが、マスクでそれが防げるわけはないことも考えれば分かり切ったことなので、マスクなど一度も付けずに、中国語が飛び交う銀座の雑踏の中を歩いて通勤していた。その結果、数回は37度の熱が出たが、一晩寝れば直ったので、いち早く自己免疫ができたのだと思う。井上正康先生が言う通り、自己免疫が一番なのであって、ワクチンなどは不要(どころか危険)なのである。

結果的に、日本では大した被害は出なかった。コロナで死んだと言われている有名人も何人か居るが、本当にコロナが死因だったのかは疑わしい。そして現在、日本より桁違いに多い死者を出した欧米でさえ既に誰もマスクをしていないのに、なぜ日本人だけマスクを外すことができないのか?全員が一斉に外した時にしか外せないというなら、彼らは今後一生マスクをしていなければならない。このように「皆がやっているのだから、自分も仕方なく皆に合わせている」というのが実情ではないのか?

これだけでもうカルトと健全な宗教性の違いは明らかなので、結論から言ってしまおう。カルト信者とは「何が正しいかについて、自分の頭で考え自分の心で判断する、ということができない人々」である。そして国民の97%は確かにそのようなカルト信者と呼ばれても仕方ない人々である。カルト信者の思考に対立するのは、常識的には「科学的思考」と考えられているが、果たしてそうか?人々は「専門家=科学者がマスクをしろと言うからマスクをする、人流を減らせと言うから外出しない」等々と考えているわけで「科学者の言うことが科学だ」と思うなら「科学的思考」も実際にはカルトでしかない。

これは科学信仰という近代の大問題なので次回以降に扱おう。カルトに真に対立するのは「いかなる権威も絶対化せず、自分の頭で考え自分の心で真理を悟ること」であり、これを私は「健全な宗教性」と呼ぶのだ。「宗教性」という言葉を使うのは、真理を探究する求道心が根底に求められるからである。3%の参政党支持者は確かにそれを持っている。彼らは誰にも洗脳されたわけではない。むしろ各メディアが金太郎飴のように垂れ流すプロパガンダに愛想をつかし、自分の目と耳でネット情報を調べて目覚めた人々である。ここに、能動的に探して情報を得るネット媒体と受動的なテレビ媒体との根本的違いがある。

ネットには、荒唐無稽なトンデモ情報は差し当たり問題外として、メディアとほぼ同じ観点の情報と、メディアの嘘を暴く情報がある。このうち、メディアと同じ情報は見る価値もない。ネット民はメディアとは異なる意見を得るために情報を漁っているのだ。しかし、メディアを批判する意見は決して一枚岩ではないから、多様な意見に基づき新しい政治団体が乱立する状態になった。それは決して悪いことではない。何が真実かは、結局は投票によって決着を付けるしかなく、結果として参政党が勝ち上がって、真実を探し求める人々の中で信任を得たということができる。

参政党支持者はメディアに洗脳された97%のカルト信者とは全く異なる主体的求道者であり、選挙という分かり易い統計によってその正しさが検証された。今、変化を求める人々を集団A、現状維持志向の人々を集団Bとして、集団Aの中だけで考えると、その中でも多様な意見が出てくるのは当然だが、同じ人間である以上、結局は最も正しい意見に統計的必然として票が集中する。結果、参政党が彗星のように現れるという大変化が起きた。

一方、既成政党の選挙結果に何か特筆すべきものがあるか?タレント候補の当選は本当に腹立たしい。選挙民は人気投票しかできない子供だと見くびられているのだ。このような選挙民に引き比べ、参政党の演説に目を輝かせて聞いていた子供たちこそ日本の希望である。保守と革新というカビの生えた分類にはもはや何の意味もない。保守も革新も現状維持の集団B(97%の目覚めない人々)であり、彼らとは明らかに異なる新しい勢力として、何が正しいかだけを基準として投票する集団A(3%の目覚めた人々)が現れたのである。

ところで、健全な宗教性の根底には真理を求める求道心が必要だと言ったが、その真摯な心を持たない人々も確かに居て、何か盛り上がっている運動に参加するだけで「正義の味方」になれるという一種の承認欲求によって、軽いノリで入ってくる可能性はある。そのような人々はカルト信者と呼ばれても仕方がない。参政党が政党要件を満たす地位を得る前に支持した人々は真に信頼できるが、今後、参政党がどんどん勢力を増していけば、様々な人が集まりカオスになる危険性がある。しかし、参政党を立ち上げた人々はそれを十分承知の上で、党員の一致を図るための教育システムを初めから用意している。

この教育問題こそ参政党が三本柱の筆頭として掲げているものであり、学校教育も根本的に立て直さなければならない。本来、日本人は世界一の識字率と教養を備えた最良の民族であった。それを脅威と感じたGHQの教育破壊によって、日本人は魂(つまり健全な宗教性)を抜かれた奴隷になってしまったのだから、どんな階層の民衆でも真理を求めて学問をしていた江戸時代のような、本来の日本民族の姿を取り戻す教育が必要である。

それは参政党の話も聞かずに邪推する者たちが考えるように、右翼的な洗脳をすることではない。全く逆に、各人が自分の頭で考え自分の心で価値判断できるような主体性を涵養することである。もちろん「言うは易く行うは難し」ではあるが、とにかく真の教育は、先ず真理を求める求道心を育て、学びの中で主体的に悟った真理に従って自分の行動を律し、そのように自律した個人同士が連帯して自律的共同体を形成することを目標とすべきである、と私は主張する。

このような教育を可能にするため、真の自律と真の連帯はいかにして可能となるかについての哲学を先ず確立する必要があるのだ。江戸時代には確かに哲学があったが、論語ではさすがに現代にそぐわない。特に、科学文明に席巻されて科学が中世の神の地位を簒奪したような近代文明においては、先ずもって科学信仰を正確に克服できる哲学が絶対的に必要とされるのである。次回からはその話に入ろう。

東工大電子工学科卒、電気工学修士取得
米国の神学校に留学、宗教教育修士取得

政教分離は西欧の特殊事情によるもので、
もちろん、カルトは排除されるべきだが、
政治には健全な宗教性が絶対必要である。

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